Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 19: 〈歴史の真理〉に向かって (19)   小林康夫

前回、資本主義の中心的な「哲学」として能力という問題を考えはじめていた。
 

ここで、「哲学」という言葉を括弧付きで使っているのは、ある種のイロニーの効果のためではあるが、資本主義を単なる経済システムというよりは、もっと深く人間の本質をそのさまざまなコノテーションのもとで「経済」的に規定するきわめて強力な「存在の体制」として捉えることができるわけで、神学的な、形而上学的な、つまり超越的ないかなる理念もない「哲学の不在」であるがゆえに、逆に、いっそう強固に人間を束縛している無言の「哲学」がそこには機能している、とも思われてくる。

いや、それどころか、近代における言説としての哲学のすべては、まさにこの資本主義の極度に実証的な「哲学」から出発して、こちらも神的な超越性に上訴することなくあくまでも人間の地上のロゴスによって、それを問い直し、対抗し、超えようとしながら、しかし場合によっては、それがすでに内包している「存在と時間」を意味として事後的に、追認的に、形式化することに終わったのではないか、と思われてもくるのだ。

いや、こう言うのはかならずしも単に批判的にではなく、資本主義とはまさにそのように世界における人間の存在の根本的な問い直しを必然化するものと考えることができる。

もちろん乱暴な言い方であることは承知のうえでだが、批判も弁証法もニヒリズムも存在の解釈学も実存的投企も恍惚も脱・構築も逃走も倫理も……それぞれの時代における資本主義的な存在体制への意味の側からの応答であったとすら言えるのかもしれない。

しかも応答のどれもが最終的には資本主義の多様な振舞いにどこか似通ったものになってはいなかったか──これを否定的にではなく問わなければならないと思う。
 

繰り返しになるが、資本主義は、量に還元された一元的な価値のもとで、テクノロジーと結びついた個人のコントロールを圧倒的に超えたスケールにおいて、きわめて現実的な、ということは直近の未来時間における価値の増大Δを追求する複合的で、複雑なシステム──価値変動への価値投下があるがゆえに本質的に指数関数的なメタシステムを内包したシステム──に、人間の存在が全面的に巻き込まれることである。

資本主義は永続的なサイクルとしての時間ではなく、継続的に進歩する時間、量的な差異Δをつねに求め続ける競争的な時間の歴史性に立脚している。

この差異のダイナミズムはその目的をその運動の外に定位しない。

それは、全体としては進歩的であるというだけで、それ自体は目的を欠いている。

そしてそれがゆえに形式的であり、逆にいかなる内容・意味をもそこに盛り込むことができるのだ。

たとえば一万二千円という金額がどのような経験の内容に翻訳されるかは、それぞれの個人の自由に完全にまかされている。

その自由が個人の享楽を可能にしているのでもある。

ここには「大きな物語」はない、ということは「大きな目的」はない。

人間にとっての、あるいは歴史にとっての「目的」は徹底して微分化されてしまっている。

それこそまさに世俗化のプロセスなのである。
 

資本主義は世俗化した時間認識を要求する。

それは終末論的な時間を廃棄する。

「終末」という「大きな目的=終り」を微分化された無数の「小さな目的=Δ」、けっして終わらない、たえず更新される「小さな目標」に分散化させるのだ。

人間の尺度を超えた大きな量を大量の断片に分散させることによって、意味を希釈し、顔を失わせ、効率的なシステムを構築するというわけである。

だが、忘れてならないのは、この分散が可能になるのは、そこで問題となっている未来への時間を維持し担保する約束、つまり信用=信頼の権威があるからだ。

この約束ないし信用は、かならずしも契約には還元されない。

そこでは契約以上のなにか、未来への願望の共有がある。

資本主義は信用をパトスにして機能する。

だからこそ、昨年以来、ひとたびその信用の根幹がダメージを受けると須臾のうちにグローバルな規模で資本主義が危機に瀕することになるわけだが、このように資本主義はその本質において微分的な、分散的なシステムであるがゆえに、同時に、微小な差異の複雑なダイナミズムが危機的なカタストロフィを惹起する可能性につねにさらされている。

しかもカタストロフィが訪れるときは、それはそれぞれの個人の経験を完全に超えていて、しかし同時に、あくまでも自然という外部からではなく、資本主義というシステムの内部から起こる。つまり、資本主義は、一方では願望された信用に、他方では、それと表裏一体となった、カタストロフィへの不安、そしてニヒリズムを、存在の基本感情として鋳込むのだ。
 

こうしたニヒリズム的な不安に対しては、20世紀の歴史が証言するもっとも一般的な対抗は、個と集団とをつなぐものとしての同一的な「存在」への過剰な高揚、脱自的な存在の高揚をもっての対抗であった。

つまりはファシズム、あるいは民族主義であり、それは、なによりも「起源」において規定される存在に、不安におびえる無名の個とは異なった、より集団的な、というより全体的な意味を与え返すように機能する。

存在の全体性へのパトス──それは、存在の全体性という実は限界づけられた幻想のもとで、競争を戦争に、不安を熱狂と恐怖の分割された複合に変え、そして最後には、カタストロフィへの対抗であったはずなのに、それが予測していた以上の破滅をもたらすことになる。

それは自己破壊へとつながる道なのだ。
 

この危険な道を避けようと思えば、そのひとつの方法は、終末(エスカトン)を分散化し、微分化することかもしれない。

つまりは、終末が、そして終末と救済の二律背反の出来事が、明日にも、いや、いまこの瞬間にも到来しつつあると考えるおそらくはユダヤ的な思考である。

重要なことは、この思考においては、到来はけっしてあらかじめ知ることができないということ。

予期、予測、予知といった資本主義の根底にあった未来の時間の先取りはここでは不可能なのである。

しかも、それが到来するとして、それがどういうことなのか、かならずしもあらかじめわかっているわけではないのだ。

そうでなければ、それは終末になりようもなく、歴史のなかの一モーメントにすぎなくなってしまう。

いかなる先取りされたイメージもないような出来事、つまりは未知の、非知の、ほとんど不可能な出来事が到来するのでなければならない。

それは、不安を不安のままで、その到来する未知なるものにみずからを開けておくようにと要請する倫理となる。
 

ここには、資本主義的な未来の先取りの微分的な時間構造と、同時に、その終末の意味内容が非知であることによる迂回的な超越性の確保という二重の要請、そしてそれを他者への倫理として開く可能性が言われている。

それは、もちろんいくつかある哲学的思考の流れのひとつにおいてという限定つきではあるが、いまだにわれわれの哲学の思考のひとつの地平を形成していることは確かだろう。

これも極度に乱暴な言い方だが、少なくとも西欧の哲学のひとつの文脈においては、二十世紀の哲学は、実存の解釈学から出発して、こうしたユダヤ的な、出来事の倫理の哲学へと究極化したように思われる。
 

だが、21世紀もほぼ10年が経過し、資本主義のシステムそのものが自壊現象を引き起こしている現在、われわれは出来事の倫理の地平からもう少しポジティヴなポリティックスへと一歩を踏み出さなければならないのではないか。

実際、すでにそのつどの微小な増大Δを追い求める資本主義は、このままの進行では、その全体としてはすでに地球資源という自然の限界を突破してしまうことが明確になっているのではないか。

つまり、現在の人類の生存形態(つまりノアの方舟のような宇宙船にのって少数の人類が宇宙に飛び出すというシナリオは別にしてということだが)にとっての根源的な「大地」の限界を、つまり資本主義という発展の終りを明確に可視化してしまっているのではないか。

いかなる超越性とも無縁のあまりにも即物的なこの終末──たとえば食物や大地はおろか水もひょっとすると空気すら商業の対象、ということは資本主義のシステムのもとでの商品とならざるをえないような☆1、あるいは最近のメディアの報道によれば男性性そのものが遠くない将来に消滅するかもしれないと言われているような、すでにはじまっているこの終末──のあえて「主体」というならば☆2、それはもはや個人でも民族でも国家でもなく、ただ人類という種以外のなにものでもない。

問題は、終末が到来することではなく、すでに到来しつつあるこの終末から出発してどのように人類のポリティックスを構想できるか、なのである。
 

そこで問われているのは、ポリティックスである。

到来しつつある終末が実証的で、現実的である以上、それに対する応答もまた実証的で、現実的でなければならない。

しかし、そのためには明らかに、われわれは国家の至上権を中心として考えられたポリティックスとは異なる次元のポリティックスの可能性を見出さなければならない。

国際的な国家連携あるいは国家横断的な、コスモポリタンな市民活動といったいくつもの異なるレベルで、多様な試みはなされているし、そのどれもが人類という一般性に向かう希望であるにはちがいないが、同時に、われわれが民族や国家といった存在の統合的を少しも乗り越えてはおらず、あいかわらず戦争と競争の次元にとどまり続けているのも事実なのだ。
 

このポリティックスがどのようなものとなるのか──わたしには残念ながらその方向性を呈示することはできないが、少なくともいま現在のことで言えば、ひとつの直観にすぎないとはいえ、「まもる」こと、「たもつ」こと、「のこす」こと、そしてまた、すでに失われたものについては「再生する」こと、「あらたに生む」ことこそが問題となるだろう、と言っておきたい。

人類は、おそらく種として新しくなることを迫られている。

みずからが産み出したテクノロジーとシステムを通して、種としての変異を求められていると言うべきだろうか。

変異しなければ滅びるのが生物の掟であるのなら、われわれも「新しい人」とならなければならない。

哲学はその準備をしなければならないのではないだろうか。

あるいは、ひょっとすると、現にそこにあるものから出発してそれを認識することであるように思われもし、その意味ではそれ自体としては実践的な「目的」をもたないように思われもする哲学の密かな、隠された願望とは──「超人」と呼ばれるのであれ、そうでないのであれ──「新しい人」を生む準備をすることであるのかもしれない。

とすれば、哲学はいま、その秘密の願望を公然化するべきなのだろうか。

かつて「神」という超越性の名のもとではじめて可能であった「新しい人」の誕生が、いまや「人間」のただなかから、しかし「人間」の限界=終末を超えて、「人間」自身によって果たされなければならないのかもしれない。

それは同時に、「人間」のもっとも太古的な願望でもあったはずなのだ。
 

前置きが少し長過ぎたが、この「新しい人」の新しさはなによりも能力にかかわることになるだろう、ということで冒頭に掲げた問題へと戻っていくことになるのだが、今回は余裕がない。

この問題はいつかまた詳細に論じる機会があると思う。

ひとつだけ言っておくとすると、当然のことだが、能力には、「スキル」skillと言われる技術(テクネー)と対応したものもあれば、また「アビリティ」abilityと言うべき認識感覚能力、さらにはたとえばアマルティア・センが用いたような「ケイパビリティ」capabilityの場合のように外的環境のなかでの実践可能性にかかわるものもある。

当然のことながら、「新しい人」はなによりも「アビリティ」における変容にかかわるはずである。

しかもそれが本来的な「力」の増強という+Δの方向ではなく、そうした能力にかかわる一般的な傾向そのものから引き下がる方向へと変化が起こること、そしてその-Δが生み出す「空白」のなかに「失われたもの」、「残余のもの」が回帰してくることが目指されているのである。
 

☆1 「国連の報告では、世界では2億人が安全な水を飲めず、24億人が下水道やトイレなど衛生的な施設を利用できない」、「世界の主要河川の7割が枯渇の危機にあり、20年以内に水は石油以上に貴重な資源になる」(「朝日新聞」3月16日)などと言われている。

☆2 今年6月にパリの国際哲学コレージュで「いま、ポリティックスのどのような主体?」という国際シンポジウムが開かれる。筆者も参加する予定で、この問いを考えているところ。


↑ページの先頭へ