いや、それどころか、近代における言説としての哲学のすべては、まさにこの資本主義の極度に実証的な「哲学」から出発して、こちらも神的な超越性に上訴することなくあくまでも人間の地上のロゴスによって、それを問い直し、対抗し、超えようとしながら、しかし場合によっては、それがすでに内包している「存在と時間」を意味として事後的に、追認的に、形式化することに終わったのではないか、と思われてもくるのだ。