Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 9: 〈歴史の真理〉に向かって (9)   小林康夫

最後には――と言いながらこの「最後」がどのような「最後」なのか、何の「最後」なのか、はっきりしているというわけではないのだが――ある種のスタイル――ほんとうはすぐにも「存在のスタイル」と言ってしまいたいのだがそれは留保しておくことにして、まずは「文は人なり」、文体がその小さな徴候であるにはちがいないスタイル――に帰着するということをプレ・テクスト(口実)にして、今回は(も)いささか変則に走る。
 


 

あるいはそれを村上春樹的ワールドとでも言うこともできるのかもしれない。
 

歴史=物語というものが本質的になんらかの「終わり」に向かって進んでいくダイナミズムであるとして、しかし、もしたとえば、その「終わり」の「終わり」、つまりあらゆる「終わり」の「終わり」、端的に「世界の終わり」が、不思議なことに全体的に現出しているというのではなく(そんなことになれば、それを経験することも不可能なわけだから)、それでも、まるで最近の物理学のトピックのひとつであるブラック・ホール、あるいはお好みならば、あの「超・紐」の端のような「穴」としてすでに、この時空、この「時代」のどこかに、いや、そこらじゅうに、わたしのすぐ身近にすら、ぽっかりと「ある」という感覚――畢竟、感覚でしかないが、しかし感覚特有の「クォリア」を発散させていないわけではない――をわれわれの「時代」のひとつの徴候と認めるとしたらどうだろう。

だが、誤解を避けるためにすぐにはっきりと言っておく必要があると思うのは、この「世界の終わり」はかならずしも、よく言われてきたような「歴史の終わり」ではないということ。

人間の歴史が終わりに近づいているという感覚は、確かにこれまでの歴史のなかでもつねにあったであろうし、いや、それはほとんど――「進歩」という奇妙な理念が「歴史」という観念を植えつける前のことを考えればなおさら、いや、「進歩」が発明された後にもそれに神学的な影のようにつきまとう――「歴史」の常数とでも言うべきものであった。

ところが、ある意味では、われわれが突入している「時代」は、これも奇妙な言い方にはちがいないが、そのような「歴史の終わり」と密かに連帯しているような「歴史」という観念の「終わり」、ということは「終わり」の「終わり」であって、言い換えれば「終わりなさ」の「歴史」がはじまったとでも言おうか、つまり歴史は終わらない。

というより、歴史という人間の――ベンヤミンの言い方(「神学的-政治的断章」)を踏襲すれば――デュナミス(可能態)は、たとえ世界が終わるとも終わらない。

すなわち、歴史にテロス(最終目標)はない。
 

そう、ついでにベンヤミンの「神学的-政治的断章」に少しだけ触れておくことにすると☆1、このきわめて短い断章において、ベンヤミンが試みていることは、歴史についての神学的なイデオロギーから、「世俗的なものの秩序」を切り離し、そのうえで、その両者の二律背反そのものを「リズム」として「救い出す」方向を示唆することであったように思われる。

この「リズム」は、かれにおいては、「自然」そして「幸福」と結びついている。

そこでかれは、ニヒリズムという名のもとに、「幸福」を唯一の理念とする「世界政治」を夢みる。
 

メシアというあらゆる歴史の外部を仮構するのでないとすれば、つまりあくまでも歴史の内部にとどまるとするならば、そうした世俗的なものの領域においては、歴史のテロスとして「解放」や「救済」を設定することはできない。

それゆえにそのような神学的にすぎない目標に向かって政治を組織することはできない。

政治の意味はそのような神学的な展望のうちにあるのではなく、そのつど過ぎ去る〈いま、ここ〉の「はかなさ」Verga``ngnisにおいてあるのでなければならない。

この「はかなさ」は、ベンヤミンにとっては、「自然」の徴候であり、同時に、人間は、その自然的存在においては、その「はかなさ」ゆえにこそ、「幸福」という「己の没落」を追い求めるとされている。

もちろんニーチェの思考の磁場のなかでの問題設定だが、ある意味では、ベンヤミンが一生をかけて追い求めたものとは、当時すでに失われつつあったこの自然との「幸福」の結びつき(アウラ)を、歴史の認識の原理として展開することであったように思われる。
 

とするならば、全体的な枠組みはかなり似通っていることを認めたうえで、はたしてこのベンヤミンの思考とわれわれの「時代」の思考とがどこで相違するか。

それは、おそらく、ベンヤミンにおいては、たとえアウラという自然の「幸福」のリズムが危機に瀕しているにしても、しかしその危機はまだ、たとえば「永遠回帰」という「原状回復」の反復性によってかろうじて補償されていた。

対して、われわれはもはや自然を、そのようなもっとも太古的なリズムの保証として期待することが極度に難しくなってきている。

自然――といっても人間が関係しうる範囲のきわめて表層的な自然だが、人間はこの極薄の表層のなかに生存しているのだから、それこそが人間的な自然である――はもはや人間がそこに介入し、それを管理し、ときには再生するような「対象」として存在しはじめている。

そしてまた同時に、われわれの世俗性はもはや自然のリズムには従っておらず、それよりもはるかに複雑で、微細で、瞬間的な人工のリズムによって支配されている。

最終的には人間が生み出していながら、しかしそれが擬似自然であるかのような環境世界を構成している複合的なリズムの体制のもとで、われわれは「幸福」へと没落していくというより、「利益(インタレスト)」へと没落していく、と言ったらいいだろうか。

「幸福」はもはや自然的なものではなく、それ自体が技術的なものと結びついた「利益」によって代理され、表象され、その資格において欲望される。

「はかなさ」は自然の「時」のリズムを示しているのではなく、たとえば刻一刻変化し続けるディジタル表示の株価ボードの明滅ように、それ自体としては無意味の、しかし「利益」(もちろん同時に「損」)の可能性を孕んだ欲望の集合的な「はかなさ」なのである。
 

だから、ある意味では、ニヒリズムをその方法とする「世界政治」は、世界市場という形ですでに実現しているのでもある。

それは、ベンヤミンが夢みた「幸福の世界政治」ではない。

実際、そんなことは不可能であり、というのも、ベンヤミンが「運命と性格」のなかで言っているように、「幸福」とは「運命」として現われる歴史の外在性から「解き放たれている」ことにほかならないが、そのような内在性の政治などそのままでは原理的に不可能であるからだ。

それが政治として可能になるためには、「幸福」が「利益」へと外部化されなければならなかった。

すなわち、「幸福」の商業化であり、技術化である。

ニヒリズムが商業化と技術化という二つの、ますます密接に寄生しあっている「方法」――つまりは「資本」ということになるが――によって外部化されたのが、われわれの「時代」のひとつの位相なのである。
 

とすれば、もはや歴史について、宗教的な神学と世俗的な政治を対置させ、永遠と現在、メシアと幸福のあいだの総合なき弁証法を「リズム」として夢みるわけにはいかない。

おそらく「幸福」という理念そのものが、密かに、またしっかりと「夢」と結びついていたはずだ。

それは――あるいは「自由」にかわって――人間にとっての内在性の最後の砦であったのかもしれない。
 

「運命と性格」のなかで、ベンヤミンは「法的規約が人間関係のみならず人間の神々への関係をも規制していた段階」を「人間のデモーニッシュな存在段階」と呼んでいた。

そして、「神学的-政治的断章」においては「自然という人間の段階」という言い方がされている。

だとすれば、いまや、このデモーニッシュな段階と自然の段階の「あいだ」に、またそれらに重なるように、もうひとつ「複製技術」がその最初の一徴候にすぎないような商業・技術的プロジェクトの段階、つまりはオートマトン(と呼んでおこう)の段階を考えなければならない。

それは一方では自然を模倣し、再生し、そして同時に他方では神々やデーモンが支配するはずの「運命」をもプログラムする。

しかもその原理は厄介なことにあくまでも理性というデモーニッシュな自然なのである。
 

こうして「神学的-政治的断章」というわずか二頁にも満たないような、しかも書かれた年代もはっきりと確定できないようなベンヤミンの小さなテクストを読むという小さな括弧あるいは(「メシアが出入りする」とベンヤミンなら言うかもしれない)小さな門を閉じて、われわれの「時代」のほうに戻るとするなら、そこでわたしが言いかけていたことはわれわれの「時代」はすでにまるで多穴性のスポンジのように、無数の、無名の「世界の終わり」に穿たれているということであった。

ついに人間のデモーニッシュな理性と結託した歴史は終わりなきデュナミスとして進行するというのに、われわれの場所は、目に見えない「世界の終わり」とすでにして隣り合わせである。

われわれの〈いま、ここ〉は、その「世界の終わり」との関係――言うまでもなく原理的に不可能な関係、想像不能の想像的な関係――によって穿たれている、ということなのだ。
 

この不可能な関係にひとつの「像」を与えようとして、今年の三月、ニューヨーク大学でチャン・シュードンさんとの「時代」をめぐる合同セミナーのときに、わたしはなぜか――村上春樹的というのはこのことなのだが――「世界の終わり」という井戸の底にしゃがみこんでいる私というトポロジーを語りだしていた。☆2
 

井戸の壁には、それまでの無数の歴史の「時代」の地層がむき出しになっている。

いくつもの廃墟の跡が、そして無数の痕跡や断片がその地層に埋め込まれている。

だが、重要なのは、この井戸が、無数の「時代」の地形の堆積をつらぬいてひとつの垂直性を保持していることなのだ。

だが、重要なのは、この井戸が、無数の「時代」の地形の堆積をつらぬいてひとつの垂直性を保持していることなのだ。

「時代」とはわれわれの自由にとっての地形である。それは端的に、広い意味での権力、つまりあらゆる種類の力が織りなす地形である。

われわれの〈いま、ここ〉には、幾重にも重ねあわされた力線が作りだすミクロの地形が対応している。

この地形を使うことがわれわれの生であり、われわれは傾斜をのぼることもできれば、それを谷へとくだっていくこともできるし、迂回することも、トンネルを掘ることもできる。

だが、どのように歩くにしても、しかし――一部を爆破するということも不可能ではないが――われわれはその地形から完全に離れることはできない。

そしてわれわれの「時代」、この地形のどの〈いま、ここ〉の地点においても、たえず更新される地形のあきれるほどの肯定性とともに、しかしまるでその影のように「世界の終わり」という井戸がすでに掘られているというわけである。
 

しゃがみこんでいるのだから涸れ井戸なのだろう、その底から垂直に真上を見上げると、その先の暗闇には、それでも星がひとつ光っている。それは理念として輝く星である。
 

「神学的-政治的断章」でベンヤミンは、「すべての地上的なものは、幸福へと没落していく」と述べて、「幸福」という理念を世俗的な生の目標とした。

そして、奇妙なパラドックスを通して、その幸福への没落のうちにこそ、メシア的なものの「もっとも静かな接近」があるとした。
 

だが、われわれの「時代」、「世界の終わり」の井戸の底から見上げる理念としての星は、もはや「幸福」ではない。

かといって超越的なもの、神的なものではない。

そうではなくて、暗闇に輝くのは、「人間の終わり」という星でなければならない。

すなわち、人間は終わらなければならない。

誰かがではなく、「人間」というものが終わらなければならない。
 

「時代」の地形のすべてを照らしているこの暗い星の光を見届けるためには、なるほど深い井戸の底へと降りていく必要があった。

それは、もはや救済も幸福もない、「もっとも静かな」希望であるようにわたしには思える。
 
 

☆1 わたしのセミナーの枠で森田團さん(UTCP拠点形成研究員)が行なった発表に触発されてこの小さなテクストを読んだ。わたしが『起源と根源』を書いていたときには参照できなかったテクストのひとつでもあるが、エンブレームのようなその凝縮力に魅惑された。

☆2 UTCPとNYUとの合同セミナー。いろいろ個人的な文脈もがあったのだが、そこで物語的に語ることを決めて、下手な英語で即興的に語ったことを少し敷衍して要約しておく。当然、表現は浮いて流れるところもあり、いまだに未整理のままだが、後日、もう少し明確な論理化を行なう予定。おゆるしいただきたい。


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