「カイロス(契約)的エヒイェ(自己脱在)」という視点からこれらの諸点を統合していく宮本さんの読解に対して、文献学的な知識を欠落させたわたしの「対・読解」はどちらかといえば、あえて失調的、あるいは転調的であることをお断りしておく。