(この点に関しては、本稿が対象とする物語のテクストの範囲を超えるが、モーセの物語のなかのもっとも不可解な部分、つまりのちにモーセがエジプトに戻るために砂漠を通過するときに、神ヤハウェが「かれを襲ってかれを殺そうとした」ときに、妻のチッポラがその息子の割礼を行なってその血をモーセの局部に触れさせ「ほんとうにあなたはわたしにとって血の割礼を受けたものです」と言うことで、神に殺されることを免れるというきわめて特異な部分――そこにこそ神の本質もモーセの本質も露呈しているというべきなのだが――を読まなければならない。それは、ある意味では、モーセが割礼というイスラエルの同一性の徴を――女によって、事後的に、それゆえ、暴力的に、しかし同時に、あくまでも「奇計」的に、というのはそれは「見せかけ」にすぎないのだから――蒙るという出来事である。モーセは割礼を受けたのか、受けなかったのか。いや、もしこのような二律背反的な問いの彼方で、もしモーセという存在そのものが「割礼」そのものであったとしたらどうだろう?)