それこそ、宮本さんが言うように、まさに垂直的な出来事の「いま」であり、カイロス(契約)的な、しかしまさに「契約」の「回帰」としてカイロス的な(とはいえ、契約とはそもそもそのような回帰の時間性以外のなにものでもない)「いま」なのである。