Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 5: 〈歴史の真理〉に向かって (5)   小林康夫

人間の命運は思考の運命を与える。
 
 

終わり、そして目的。

終わり = 目的。

しかも、あたかもこの二重の概念をすでにして裏切るかのように、複数形に置かれた「終わり = 目的」(fins)。

しかも端的に「人間」の「終わり = 目的」。
 

1980年の夏のことだから、すでに30年近く前。

フランスのスリジー・ラ・サルで行われたデリダの最初のコロックのタイトルが、「人間の諸目的 = 終わり」だった。

フランスに留学していたわたしはその10日間のコロックに参加した。

それは、わたしの知的な生にとってのきわめて大きな出来事であった。

それはさまざまな意味において、わたしの「限界」を破壊した。

その破壊はあまりにも激しかったので、それをそのままにしておくことはできなかったがゆえに、10日目の最後の総括の場において、わたしはわざわざ挙手をして、――いったい誰に対してだったのだろう?――「Je vous aime」(あなたたちを愛する)」という奇妙な言表を発しないわけにはいかなかった。

いや、このことはどうでもいい。

ここは、わたしの個人的な経験を語るべき場処ではない。

いまここでわたしの注意を惹きつけるのは、そのときのコロックのタイトルである。

「人間の諸目的 = 終わり」――80年当時のわたしは、いったいこの奇妙なフレーズをどのように理解していたのか。

フィリップ・ラクー = ラバルトとジャン = リュック・ナンシーによる冒頭の問題提起を聴いたはずのわたしはいったいなにを、どのように受けとめたのか。

「人間が人間を超えたみずからの固有な本質を完成することがもはや約束されず、人間がそのテロスを引き受けることもプログラムすることできないようなある命運déstinationに委ねられてしまったこの時代――それが「知」という形をとるのであれ「智慧」という形をとるのであれ、哲学というものの命運自体が厳しく問われているのである」――かれらはこう語っていたはずだ。

そのときわたしがなにか理解したのであれ、なにも理解しなかったのであれ、すでにジャック・デリダもフィリップ・ラクー = ラバルトもこの世にいなくなった今日、この「とき」において、わたしは突然に理解する。

ある意味では、いまだにわたしは、「人間の諸目的 = 終わり」というこの問いのなかにとどまり続けている。

そのときそのような形で開かれたその問いの場のなかにいまだに、よりいっそう無理解のまま、よりいっそう混乱したまま、とどめ置かれている、と。
 

    *
 

人間というものをどのように定義するのだとしても、しかしもしその定義を内在的に、ということは、人間の内側から行なうのだとすると、おそらくなんらかの仕方で「終わり = 目的」という概念を組み込まないわけにはいかないだろう。

たとえば人間を定義するもっとも強い指標のひとつである技術は、まさに目的という構図あるいはデザインを抜きにしては考えられないだろうし、埋葬や葬礼といった死にまつわる文化――そしてその鏡像である誕生にまつわる文化――こそもっとも普遍的な人間性の徴であってみれば、人間にとって「終わり = 目的」が、少なくとももっとも根源的な構造のひとつであることは疑いない。
 

つけ加えておけば、人間を定義するもうひとつの、そして最大の特性である言語には、おそらく一方では、「終わり = 目的」に関わるきわめて技術的な次元があると同時に他方では、ほとんど叫び = 声であるような、「終わり = 目的」の不在そのものであるような次元が共存しているとここでは述べておこう。

この二重性が言語の問題を複雑にしている。

言うまでもなく、詩は、この根源的二重性を徹底して引き受け、そうして「終わり = 目的」という終わりなき体制に空隙や無の噴出を仕掛ける。
 

人間という「種」が――どのようにしてだろう?――生まれて700万年だとしよう。

この長い時間のほとんどは、もちろん出来事もアクシデントも、痕跡も堆積も、そして変化も進化もあるのだが、しかし本来的な意味においては「歴史」はない。

歴史は、外的な連関として規定される技術性一般が、――意識、意図、意匠、意味……どのような仕方であれ――「意」という内在性の図式として構想されるところにはじめて立ち現われる。

生命は、個体の「終わり」が同時に種の「終わりなさ」と一致するような仕方で存在しているのだが、その「終わり = 目的」が内在化されてはじめて人間的な歴史が生まれてくると言うべきだろう。

あらゆる宗教も、哲学も、ハイデガーの『存在と時間』に至るまで、生命という本来的に技術的である存在のこの「終わり = 目的」の構造を「意」化し、つまり内在化させ、歴史化し、そうして人間的な意味を発見、いや、創設する方途であった。

人間の文化の全体は、「終わり = 目的」の構造のなかに根づいているのである。
 

だが、そのことは同時に、人間にとって人間そのものが「終わり = 目的」――単数だろうか、複数だろうか?――でもある、ということを意味する。

生物として人間という種であるだけではまだ人間的な意味は保証されていないのであって、「人間である」ためには「人間になる」のでなければならないというわけである。

「人間であれ!」――これは人間文化の全範囲において響きわたっているアポリアとしての「法」である。

ここでは「人間」がなにを意味するのか分からない。

にもかかわらず、それゆえに「人間であれ」あるいは「人間になれ」とこの「法」は言いつける。

奇妙にも、人間は事実として人間であるだけでは不充分であって、それ以上に、行為あるいは思考を通じて、もしくは記号や価値といった外的な指標を通じて、さらには逆説的ではあるが、ときには人間という限界を超えて、人間以上のもの、人間の他者になることまでもが命じられている、というわけである。
 

たとえば、その「法」に応えるかのようにして、身体に刺青を施すことがあるかもしれない。

「汝、殺すなかれ!」といくつもの戒律を遵守することがあるかもしれない。

神を求め続けることがあるかもしれない。

「正義」を信じて闘うことがあるかもしれない。

あるいは動物や機械へと「生成する」ことを夢みるかもしれない……

崇高や神秘の色彩を纏った至上の価値から、本質あるいは「本来性」といった哲学的な概念が織りなす思考を通り、ついにはわれわれの日常に溢れかえる市場のセンチメンタルな人間主義に至るまで、人間は人間を倦むことなく探求し、求め続けて止まない。

人間は決定的に「人間」の「終わり = 目的」に関係づけられ、送付されているのである。
 

人間は途上の存在である。

起源から「終わり = 目的」に向かう、終わりなき、そしてしばしば目的なき途上の存在である。

すなわち、みずからに向かってみずからを送付し、運び届ける「命運」(1980年のラクー = ラバルトとナンシーのディスクールもまた「Bestimmung」あるいは「déstination」のまわりを廻っていた)こそ人間の存在条件なのである。

人間についての、あるいは歴史についての強力なヴィジョンを提起するように組織された宗教は、どれもそれぞれまったく独自な仕方で、人間の「終わり = 目的」を定義し、人間存在の根源的な途上性を高揚していた。

ところが、少なくとも西欧という限定的な文脈においてだが、近代とともに、ということはそのような「時代」の形成とともに、その終末論的 = 目的論的なヴィジョンは、「歴史」という、それ自体が、人間の「終わり = 目的」への関係のもっとも一般的な地平であると同時に、「主体」概念との相関において強力に実体化されたダイナミズムに、とって替わられたと言うよりは、むしろ包含され、吸収されたのである。

そのとき、超越的な絶対的な「終わり = 目的」の統一性は一挙に相対化された。

われわれの時代は、もはや「終わり = 目的」を単数で考えることはできない。

「終わり = 目的」は分裂し、多数化し、相互に異質化し、個別化しているのだ。
 

複数の命運、複数の絶対、複数の「人間」の共存の地平――それこそわれわれのモダニティである。

この複数性は一般的には闘争 = 戦争を必然化する。

ごく乱暴な言い方をするならば、モダニティとは、戦争形式によって複数性を乗り越え、あるいは支配し、管理しようとした「時代」である。

いや、この「時代」は過去の時代ではなく、いま現在、われわれが生きるこの「時代」の現実である。

だが、にもかかわらず、われわれは少なくともこの形式が最終的には、なんらかの仕方で「絶滅」(アウシュヴィッツ、ヒロシマ、パレスティナ、カンボジア、コソボ、ルワンダ、ダルフール等々、等々、なんという「恥」!)へと至ることを――けっして十分すぎるほどではない仕方で――知っているのである。

「人間」の「終わり」が「目的」になるという悲惨。この「終わり」は、つねにわれわれの複数の「終わり」のひとつの可能性なのである。
 

だが、より一般的には、たとえば――すでに古色を帯びてはいるが――ポストモダンと呼ぶこともできようわれわれの「時代」にあっては、この闘争――それは「集団」と「英雄」(あるいは「天才」)という図式とは不可分のものであった――の様態は、部分的というより、グローバルには、極限にまで拡大され一般化された競争という様態に置き換わったと言うべきだろう。

地球上の人間の総数は、これまでの人類史ではけっしてありえなかったほどに、危険なまでに、すさまじい勢いで増え続けている。

そして、その全員が、ほとんどいかなる残余もなく、資本主義と呼ばれる、グローバルに一般化された過酷な「競争」に巻き込まれている。

もはや人間は人間を「終わり = 目的」として生きる余裕はない。

人間は、絶えず繰り返される、そのつど更新される「ゴール」という「終わり = 目的」に向かって生き延びるように競い続けなければならないのだ。

資本主義とはけっして終わらない「終わり」。

絶えず「ゴール」を更新する競争のゲームなのである。
 

だが、それだけではない。

戦争というような明らかに破壊的な様態がもたらす「終わり」だけではなく、われわれの単なる日常の安寧、そのために使用されるエネルギーや物質がそのまま、戦争に比べればはるかに緩慢だが、しかし人類史のスケールでは途方もなく急激な速度で、「主体」としてのわれわれというよりは、生態系としての、環境としての「われわれ」の「終わり」を準備しているという事態。

おそらくわれわれは、「主体」という概念(あるいはそれと対になった「影」としての「他者」という概念)とはまったく別の、「終わり = 目的」という構制には回収されないもうひとつの定式、つまり《「人間」とは「環境」である》という定式を考えはじめるように誘われていると言うべきかもしれない。
 

すでに繰り返し述べてきているように、われわれの時代の根底はテクノロジーという様態をとった技術である。

ところが、このテクノロジーは、すでに量においても質においても、人間の尺度を圧倒的に超えてしまっている。

忘れてはならないが、いまでは、世界や人間についての新しい認識すら、テクノロジーと結びついた思考によってもたらされている。

テクノロジーは内在でも超越でもない、いや、むしろ内在でもあり超越でもあり、その意味で中性的なものである。

それはすぐれて「終わり = 目的」の機構なのだが、しかしそれは絶えず更新され、先送りされる「終わり = 目的」であり、その更新は終わりもなければ、ひょっとするといかなる目的もないのかもしれない。

終わりの終わりなさ、目的の無目的――それが巨大な「超・人間」としてわれわれの歴史を動かしているのである。

「人間の終わり」の「終わりなさ」――「すでに起こった」出来事の連鎖あるいはその記述であると素朴に考えるのでないとすれば、歴史とははじめから、そのようなものであったのかもしれない。

そのことがむき出しの力を備えて立ち現われてくるような「時代」、ひょっとすると、最後の、しかしけっして終わらない「時代」のはじまりにわれわれはいるのかもしれない。


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