Brain Sciences and Ethics / 脳科学と倫理

セミナー2:ガザニガを読む

中期教育プログラム「脳科学と倫理」セミナー(2)第10回報告

2008.01.18

中期教育プログラム「脳科学と倫理」の進行状況を報告します.
セミナー (2) 「ガザニガ 『脳の中の倫理』 を読む」
第9章 「信じたがる脳」

【報告】串田純一さん 若手研究員

本文要約
  そもそも倫理のようなものが問題になるのは、倫理性や「良さ」に関して様々な人々が持つ諸々の信念が互いに対立するからであり、そしてそれにもかかわらず何らかの社会的な決定がそのつど避けられないからである。では、そもそも人は何をどのように信じるのだろうか。脳科学は、この問いにも答え始めている。人が何かを信じるときには、左脳のある部位が特に重要な役割を果たしている。癲癇治療のために脳梁切断手術を受けた人の研究から、左脳のその部分は、脳の諸部分が受け取った断片的な諸情報を解釈して理屈の通った説明を作り出す働きを持つことがわかった。

  科学が非常に発達した現在も、宗教的な信念に縛られた言説は駆逐されるどころか逆に増え続けている。宗教自体の発生・存続は、個々人の信念というより集団としての教団が社会・経済的な淘汰圧にどう対応するかということ(いわゆるミームとして)にかかっているので、現在の状況もこの観点から分析すべきだろう。また、道徳的判断の個人差を調べるテストでは多くの人が同じ選択をする一方でその理由は個々バラバラあるいは一貫性がない、という知見がある。これを見ると、道徳的・宗教的な信念も、自然に進化した共通的な直観や行為の傾向を後から説明する体系に過ぎないのではないかと思われてくる。
  
  また、歴史的芸術家や政治家にも患者と思われる例が少なくない側頭葉癲癇は、頑固さや強い宗教心を特徴とし、しばしば発作時にいわゆる神秘体験と類似した、あるいはそれそのものと言ってよい経験を報告することが知られている。ブッダやムハンマドなどの宗教家(著者はこのリストからイエスを外してパウロを入れている。慎重な政治的配慮と言うべきか)の伝記も、側頭葉癲癇の症例として理解できる可能性が高い。こうした説明を「神の声や姿の経験を脳の特異な機能による単なる幻に貶めることだ」として強く拒絶する人もいるかもしれないが、他方では「こうした脳の機能こそ神が自らの存在を示すために人間に与えたものだ」と解釈することもできるかもしれない(そして恐らく、議論は最後まで平行線のままである)。いずれにせよ、教義体系の相違ではなく多くの宗教の間で道徳的規範が共通しているという事実から、人類共通の倫理を構想することの可能性を考えるべきだろう。

講読に際して議論された論点

  • 著者は、多くの宗教・共同体の間で規範とされる行為は共通している、と述べているが果たして本当にそうだろうか。これは、アメリカ合衆国という近代的資本主義が均一的に支配している社会においてしか言えないことなのではないか。道徳的判断のばらつき
    を調べる実験にしても、法的な背景などあまりに多くの要素を捨象し過ぎており、どの程度の妥当性があるのか、はなはだ疑わしい。
  • 著者は宗教の問題を、信仰・信念と教祖や信者の神秘的体験からしか考えていないように見えるが、アリストテレスが「第一哲学は神の学でもある」と言ったように、宗教の本質には、この世界の根拠と目的への存在論的な問いが含まれている。この、さしあたり道徳や教義とは無関係な存在論的問いとそれへの答え方が単なる信念/信仰の領域に押し込まれて思考と論議の対象ではなくなっているということこそが、現代の哲学・倫理を極めて貧弱なものにしてしまっているのではないか?
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    【レポート】ガザニガ 『脳の中の倫理』 第9章 「信じたがる脳」 PDF (109KB)



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