Brain Sciences and Ethics / 脳科学と倫理

セミナー2:ガザニガを読む

中期教育プログラム「脳科学と倫理」セミナー(2)第7回報告

2007.12.08

中期教育プログラム「脳科学と倫理」の進行状況を報告します.
セミナー (2) 「ガザニガ 『脳の中の倫理』 を読む」
第6章 「私の脳がやらせたのだ」

【報告】串田純一さん 若手研究員

本文要約
  アメリカでも日本でも、犯罪者の責任能力の有無が裁判において大きな争点になることは珍しくない。脳の器質的な特性のために、或る犯罪的な行為(厳密に言えば単なる「身体運動」)を反射的に行ってしまうような人間は、自由に行為する主体だと見なされないので責任を問うこともできない、というわけである。こうした「心神喪失」といった発想は近代的司法理念に当初から含まれていたが、脳科学の進展は、犯罪的・合法的とを問わずあらゆる人間行動を物理的な因果性に基づく決定論に還元する思考を助長するだろう。

  実際、自由意志が存在するか否か、というこれまた古くからの議論に一石を投ずるものとして、B・リベットの有名な実験がある。それによれば、被験者が何らかの行為を意識的に決断するよりも約0,3秒早く脳内には準備電位が生じる。この結果から、いわゆる「自由意志」もまた脳の生理的機能の結果として生じるものに過ぎない、という解釈を引き出すことも不可能ではない。また、薬物中毒や脳損傷の例から見て、前頭葉の灰白質が少ないと行動を制御する能力も弱くなると考えられている。

  これに対して著者は、脳と心や人の水準は区別されるべきであると言う。脳が生化学的な法則に従って機能するのは確かだとしても、責任とは、人間たちが相互に関わる社会において初めて意味を持つ概念なのである。

講読に際して議論された論点

  • 自由を、決定性・確率性・不規則性のいずれにも服さない何かとして理解することは不可能なのではないか。自由とは、せいぜいで「外的な強制を理由とすることなく主体が自分自身の或る内的状態に従って行為できる」ということであり、その「或る内的な状態」とは、「諸々の欲求と信念が合理的なネットワークを構成している状態」である、と考えればよいのではないか。
  • また、「責任」という観念は、単に意思に基づく行為のみならず、実は意思の不在についても適用されるのであり、例えば「過失」の場合がそうである。過失が問われるのは、本来為すべき配慮・行動を為さなかったときであって、これに対応する脳状態とはまさに「活動電位のようなものは何も生じていない」ということに他ならない。つまり、そもそも人が「何を為している(為していた)のか」ということは、脳状態はもちろん身体運動によっても決定されることはなく、それは社会的あるいは歴史的なコンテクストによって常に変容してゆく可能性を持っている(報告者は、この「開放性」が「自由」にとって本質的なものだと考えている)。この点で、著者の立場は適切だとも言えるが、行為や出来事の存在論的な問題までもが考慮されているわけではないと思われる。
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    【レポート】ガザニガ 『脳の中の倫理』 第6章 「私の脳がやらせたのだ」 PDF (97KB)



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