Brain Sciences and Ethics / 脳科学と倫理

セミナー2:ガザニガを読む

中期教育プログラム「脳科学と倫理」セミナー(2)第11回報告

2008.03.13

中期教育プログラム「脳科学と倫理」の進行状況を報告します.
セミナー (2) 「ガザニガ 『脳の中の倫理』 を読む」
第10章 「人類共通の倫理に向けて」

【報告】串田純一さん 若手研究員

本文要約
 20世紀、とくにその後半以降(いわゆるポストモダンの流れの中で)「人間の普遍的な本質などは存在しない」という考えが広く行き渡った。確かに、人間や生命、世界の本質に関する信念はあまりに多様である。しかし「人間は大型の動物である」という事実こそ揺るぎないものであり、それに基づいて人類共通の倫理を構想することが可能かつ必要なのではないか。「人を殺すな」という道徳の普遍性を疑うものはないないだろうし、近親相姦の禁止が人類共通の規範であることも経験的に知られている。人類に共通しているのは、ある種の「道徳的直観」とでも言うべきものであり、異なるのはこの直観に対する解釈とそれが形成する信念体系である。また、人は道徳的判断が迫られる場面においては関係がより近い人間の利益を優先するという調査結果があるが、個体の生存とその個体に遺伝的に近縁な集団の存続は相関するという点から見て、これは進化論的に理に適った傾向である。

 脳科学もまた、こうした見方を支持するような知見を与え始めている。善悪を判断する際に特に活発に働く脳の部位はすでに知られており、そこには感情を司る部位が含まれる。
また、ミラーニューロンは他人の行為を模倣することを可能にするが、人間同士の疎通や共感は、心的状態に関する理論よりもむしろ模倣と自己投影に負うところが大きいようだ。こうした生得的な機能こそ人類共通の倫理の基礎となるべきものであり、脳科学はこの倫理の形成に大きく貢献できるはずである。

講読に際して議論された論点

  • 著者の議論や脳科学的知見は「人類共通の倫理」などといった大テーマを語るにはあまりに不十分ではないか。
  • 倫理の根拠を、進化の過程で獲得された生物学的形質に求めることには原理的な問題があるのではないか。なぜなら、進化の過程で選択される形質とは個体よりもむしろ集団としての種(もしくは情報としての遺伝子)の存続に有利なものであるのに対して、一人一人の人間にとっては自分自身の存在こそが第一次的な問題となるからである(集団のために行為するときでさえ人はそれを「自分の」可能性として引き受ける)。つまり、個々の個体が自己を気遣えるようになったということこそがヒトという種を繁栄させた、ということである。これは一種の自然の狡知と言いうるが、しかしその結果、「自己を気遣う」心の能力と「種を繁栄させる」身体の諸形質の間には根源的な葛藤が生じるのである。そしてそれは、種と環境の安定的更新のために個体を消去する「死」という現象において極まる。倫理的問題の多くは、何らかのかたちでこの葛藤に関わっている。

     またこの葛藤は、まさに過去の自然自身が「選んだ」ものに他ならないのであるから、それへの対処法をこれまでの自然的過程やその諸結果のみから得ようとしても無駄であろう。ここにある問題、それは類(種)と個の関係に関わるものであり、まさに古代以来の形而上学(メタフュジックス)の根本問題そのものである。人間はいわば自然(フュシス)そのものによって自然を超え(メタ)ようと格闘すべく運命づけられており、この格闘そのものが一つの自然過程に他ならないのは確かだとしても、私たちは自然の新たな可能性を自ら実現してゆくほかはないのである。人類に共通のものがあるとすればそれはこの可能性という運命であり、それは可能性というその本質からして、現実性(これまで起こったこと)の説明でしかありえない自然科学が最後まで取り扱うことはできないものであるが、他方ではもちろん、宗教的・文化的伝統がそれについての知を安易に与えてくれるわけでもない。しかも、そうかといってそれを探求する試みを単に「倫理学」や「哲学」と名付けてよいのかどうかも定かではないのである。

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    【レポート】ガザニガ 『脳の中の倫理』 第10章 「人類共通の倫理に向けて」 PDF (110KB)



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