「哲学と大学」第一回の討議内容
1.「宛先Adressat」の問題
1)「私たち」の宛先
「哲学と大学」といった議論を始めるにあたっては、つねに議論の「場」がどのように形成されているのかに注意を払わねばならない。現在の状況において、「哲学と大学」などという「高尚な主題」を「東京大学」、しかも「グローバルCOEプログラム」において論じている私たちの立場や語り口自体を客観化しなければならない。言い換えれば、「ここにいない者」に注意を払わねばならない。
「ここにいない者」:
a)女性 (女性の参加は今回1名あったが、大学教員の男女比を考えると女性の視点はやはり重要)
b)「崖っぷち弱小大学」(杉山幸丸、中公新書ラクレ)の存在
「一流大学」と「弱小大学」の両極だけでなく、衰退する中間層の大学の状況も考慮に入れた方が良い。それは例えば、かつて「駅弁大学」と揶揄された地方の旧国立大学である。地方大学は地域の学術的・文化的中心地の重要な役割を担い、地元の優秀な人材を育て上げてきた。地方の行政官や教員など、地域に貢献する秀逸な人材育成の場として機能してきた。一流大学の旧帝国大学は別として、独立行政法人化以降、運営費交付金の削減の影響をもっとも被っているのが地方の旧国立大学。地方大学の衰退は大学状況のみならず、地域社会の盛衰という観点からも見過ごせない現象。
c)自然科学・理工系の存在 社会科学の存在
「大学とは何か」という問い自体が人文科学に固有の響きをもつのは何故か。自然科学はそもそも、大学という知の枠にとどまらない普遍性を相手にしているからか。
d)非西洋系の存在
「哲学と大学」という問題設定はきわめて西洋的。
2)レディングズの宛先
今回取り上げるレディングズの『廃墟のなかの大学』は、誰に向かって書かれているのか? 主として大学人に宛てられているようにみえるが、それだけでいいのか。
たしかに、性差などマイノリティの問題はカルチュラル・スタディーズの勃興の分析を通じて明瞭に意識されている。その一方で、「大学は従来、国民文化と強く結びついていたが、グローバリゼーション状況下でその結びつきが決定的に解消される」という図式が打ち出される。言い換えれば、本書においては「文化」と「国民文化」がほぼ同一視されてしまっているように思えるが、果たしてそれは妥当か(例えば、この図式は戦後日本にどれほど当てはまるのだろうか)。
こうした同一視は、日本のように大学の数がきわめて多い国において、以下のような点を分析する上で、見逃しえない影響を及ぼすだろう。
a)大学と文化の関係、教育と研究の関係
大学に「文化=教養」を求めるのか、ノウハウ=各種資格を求めるのか。
b)文科系と理科系の関係
c)カルスタの現状
2.『廃墟のなかの大学』の構成
批判的分析の部分(主に1~3章)、歴史的経緯の部分(主に4~9章)はおおむね的確。しかし、積極的提言の部分(主に10‐12章)にはかなり不満が残る。
批判的分析に関して「的確」というのは、現状を客観的に分析するに際して、「エクセレンス」概念がそのイデオロギー的な性格を暴露するところまで徹底的に議論を進めることによって、この「空疎な概念」に批判的な射程をもたせたから。「おおむね」というのは、その批判的射程が厳密に(とりわけ特殊日本的に)どこまで届きうるものなのか、未だ判然としないところも残るから。
もう少し時間があれば議論を深めたかったのは、むしろ後半部について、とりわけ「不同意の共同体」や「大学をめぐる信の問い」の真の射程について。
3.商業主義(commercialism)と消費者主義(consumerism)
エクセレンスを量的一元化志向と捉えるとしても、大学において追求されるエクセレンスは質においても量においても異なる。一方で、研究における学問的エクセレンスを追求する姿勢が文科省によって奨励・推進されるという事態がある。他方で、「即戦力」教育・資格取得を強調することで少しでも多くの学生を囲い込もうとする事態がある。両者はまったく同じ事態の裏表ではないように思われる。
だが、前者は国際競争における生き残りを賭けた闘いであり、後者は少子化を踏まえ生き残りを模索する闘いであると単純に定義できるだろうか。これについてはもう少し考えてみる必要がある。
エクセレンスの「本性の差異」に対して、あらゆる大学を貫く傾向、「差異の本性」として指摘できるのは、学生や学費を払う親を「消費者」として位置づける消費者主義の蔓延ではないだろうか。周知のように、オープン・キャンパスなどの試みはすべて、学生獲得競争の一端にほかならない。留年する学生が大学側から「賛助会員」と暗に呼称されることもあるらしい。
(報告文:藤田尚志、西山雄二)