Title: | 【関連イベント】哲学の自己像と「会話」─ローティからヒュームへ終了しました |
|||
Date: | 2017年9月14日(木)17:30-19:00 |
Place: | 東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム4 |
哲学の自己像と「会話」─ローティからヒュームへ
講演者:若澤佑典(ヨーク大学英文科博士課程)
司会・コメンテイター:小島尚人(法政大学文学部助教)
日時:2017年9月14日17時30分より(発表1時間、質疑応答30分の予定)
場所:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム4
「会話する存在としての人間」は我々が持つ社会性・共同性を考える手掛かりとして、おもに政治思想を中心として主題化されてきた。ハーバマスによるコミュニケーション理論の批判的検討は、その一例として考えることができる。「会話」は哲学的探求の対象であると同時に、哲学そのものの在り方を再規定する出発点にもなる。例えば、リチャード・ローティは「基礎学」としての哲学を批判する際、別様な哲学を構想するコア・イメージとして「人類の会話のなかでの哲学」なるものを挙げている。ここで哲学は諸学へ基礎を提供する「文化の監督者」ではなく、さまざまな文化領域における言説を自閉から解き放ち、それらの「間をとりもつソクラテス的媒介者」として提示される。哲学者はサロンの主――多種多様なゲストを一つの場に招き、彼ら・彼女らの言葉に耳を傾けて楽しみつつ、会話がはずむような場の運営を行う――と類比される。この構図において哲学が扱うのは、会話の場の運営であって会話内容の真偽判定ではない。「会話」というメタファーは内容から形式への視点転回を促す。普遍的価値の懐疑に特徴づけられる現代思想において、この形式への視点が「会話」を有用な立脚点になさしめている。
「会話」が哲学の再規定に寄与したのは、現代思想が初めてではない。実のところ18世紀の言説空間においても、同様の現象がみられる。デイヴィッド・ヒュームは『人間知性研究』や「エッセイを書くことについて」で人間が持つ社交性に着目し、我々の日常世界を「会話好きなものたちの世界」として示している。さらに哲学者の思索と執筆活動は、こうした会話の世界との交流(ときにその世界からの意図的な隔絶)をもって定位される。本発表においてはローティに代表される現代思想の「会話」言説を補助線として、ヒュームにおける哲学像の再規定について考察する。これは近年、18世紀研究や政治思想史で焦点となっている「社交」概念の現代的意義を探ると同時に、「文芸の一ジャンル」としての哲学について考えることを目指している。18世紀文学において、「会話」はエッセイというジャンルを規定するメタファーでもあり、本発表は思想史のみならず、文学研究に対する寄与を意図している。18世紀研究と現代思想を架橋するうえで、ジョン・ミー (Jon Mee, Conversable Worlds)やデイヴィッド・シンプソン (David Simson, The Academic Postmodern and the Rule of Literature)らによる先行研究にも言及する予定である。 (以上)