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Title:

【関連イベント】イメージ(論)の臨界[5]:感覚の越境と形象化(不)可能性

終了しました
Date:
2009年8月29日(土)13:00-
Place:
京都大学大学院人間・環境学研究科棟 地階B23室 [地図

主催:科学研究費萌芽研究「美術史の脱構築と再構築」(代表:岡田温司)
問い合わせ:京都大学 岡田研究室 075-753-6546
事前申込:不要 お気軽にご来聴ください。


司会:門林岳史(関西大学・助教)

パネリストおよび発表タイトルと要旨
*発表順もこの通りです。持ち時間はひとり30分程度を予定しております。


►秋吉康晴(神戸大学大学院・博士後期課程)
「音と身体の境界―池田亮司《matrix》における「聞こえること」

本発表で取り上げるのは、ダムタイプの音響担当としても知られる池田亮司(1966~)のCDアルバム、サウンド・インスタレーション作品『matrix』(2000~2001)である。アルバム『+/-』(1996)以降、彼は音素材を最小限のもの(正弦波=純音やホワイト・ノイズなど)にとどめる代わりに、オーディオ機器の違いや機器とリスナーの位置関係によって多様な響きを生み出すように作品を制作している。しかも、それは単に多様な形で「聞こえる」というだけでなく、ときには音としては「聞こえない」にもかかわらず強い感覚作用―それは軽い眩暈にも似た感覚から、耳鳴りや圧迫感をともなう不快感覚にまで及ぶ―をもたらす。リスナーはこの作品において「音」の境界―「聞こえる」とは何か―をまさに身をもって経験することになる。本発表では、こうした作品が90年代後半以降に登場した背景として音楽聴取に関する脳研究の影響について考察し、音楽聴取が現在どのように問い直されているのかを考えてみたい。


►浜野志保(千葉工業大学・助教)
「念写は写真か――テッド・シリアスを手がかりに」

印画紙に向かって“念”を送り、思考のイメージを表出させる「念写(thoughtgraphy)」は、果たして「写真(photography)」の一種と言えるのか。そもそも、写真によって“念”のイメージを捉えようという発想は、どこから生まれたのか。本発表では、1960年代後半のアメリカで、ポラロイド・カメラによる念写を行ったテッド・シリアスの事例を手がかりとして、念写の撮影プロセスを検証すると共に、写真メディアの誕生以降、脈々と続いてきた“見えないもの”のイメージを撮影しようとする試みの歴史(心霊写真、流体写真など)について考える。


►平倉圭(東京大学・UTCP特任研究員)
「地層とダイアグラム――ロバート・スミッソンの「映画」」

アメリカの美術家ロバート・スミッソン(1938-1973)の映画《スパイラル・ジェッティ》(1970)と、批評的エッセイ「映画的アトピア」(1971)を分析する。ユタ州グレートソルト湖に突き出す人工の螺旋突堤《スパイラル・ジェッティ》(1970)の制作過程を記録した映画《スパイラル・ジェッティ》は、Artforum誌上で発表された「映画的アトピア」のなかでスティル写真の布置として再構成された。「映画的アトピア」においてスミッソンは、映画を想起することはできず、すべての映像は底なしの忘却あるいは「リンボ」へと溶解すると書いている。この忘却される映画と、スティル写真の布置、そして突堤の構造との関係を明らかにすることを本発表は目的とする。そこに現れるのは経験を面的/時間的にスライスする「地層」と、それを再編集する「ダイアグラム」の概念である。


►石谷治寛(京都市立芸術大学・非常勤講師)
「クリント・イーストウッド映画における近代絵画の記憶--「掘る人」のイメージを中心に」

映画以後のメディアの時代に美術史はどのように継承・発展されるだろうか。こうした課題についてクリント・イーストウッドの映画を議論の俎上にのせたい。彼の映画のモチーフとして、聖痕のイメージとともに、土を掘る場面が繰り返し登場しており、また具体的にピサロやミレーの絵画が引用されていることは注目される。これまでイーストウッド映画は、おもに古典的アメリカ映画の継承者として位置づけられてきたが、西欧の文化的記憶を解体・再構築する作家としての側面を明らかにしたい。そして「掘る人」やショベルのイメージの近現代美術史における意義を指摘しながら、これらが、イーストウッドによる西部劇以後の世界観においてどのように変奏されているかを論じる。「掘る人」は、一九世紀以来のモダニティの核心で、絵画と映画、静止と運動、夢想と現実、神話と歴史、農業と工業、生と死、大地と天空の境界に穴を穿つ役割を演じているのである。


►水川敬章(名古屋大学大学院・日本学術振興会特別研究員)
「押井守の映像表現と言語表現」

押井守にとって「立喰師」――食い逃げを行う香具師――という架空のキャラクターは、これまで彼がてがけたアニメや実写映画にしばしば端役として登場してきたが、それが中心化されたのは2000年、『立喰師列伝』という奇妙な語り――民俗学の論文の形式の小説においてであった。この小説は2004年に単行本化される。そこでは、アウトローである「立喰師」を軸に虚実が入り乱れる戦後昭和史が描かれ、政治的な主題が書き込まれた。そして、2006年、押井は、かかる小説を原作として同名のアニメ映画を発表する。ここでは、物語内容・主題は小説に準拠しつつ、映像表現においてはペープサートを使用したアニメーションという表現が採用された。本発表では、これら小説・アニメ映画というふたつの『立喰師列伝』における表現について分析を行い、両者の関係性を検討する。特に、「立喰師」の存在及び、物語の主題とこれら表現の関係性について議論したい。


►前木由紀(京都外国語大学・非常勤講師)
「新しい古さ――『ヒュプネロトマキア』における「古代風」の問題」

本発表で取り上げるのは、1499年にヴェネツィアで出版された刊本『ヒュプネロトマキア・ポリフィーリ(ポリフィロの愛の戦いの夢)』である。本書は挿絵を数多く含む幻想的な愛の物語であり、イタリア・ルネサンス出版史においては類例のない奇書とされる。
哲学者ジョルジョ・アガンベンによる評論「言語の夢」において、本書はルネサンス人文主義における言語問題の提起として位置づけられ、主人公ポリフィロの愛の対象たるポリアは「ラテン語の生きながらの死」のメタファーであるとされる。実際本書の文体はラテン語と俗語とを意図的に混成した人工言語である。アガンベンは本書の文体を、死せる言語=ポリアに対する愛を自己言及的に示す、不可能な「夢」の言語であると結論する。
このようなアガンベンの見方は、図像学的なアプローチにおいても一つのヒントとなるのではないか。本書のイメージとテクストが作り上げる古代風の建築や彫刻、庭園や祝祭を図像学的に分析しても、イメージの「意味」は結局のところ「愛の寓意」に帰着してしまう。「意味のない」装飾文様、牧歌的風景――その後数世紀の間にありきたりのものとなってしまった――こそが、「新しさ」を端的に示していたことを今一度確認したい。


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