破急風光帖

 

★  日日行行(453)

2021.06.07

* で、「モノ派」ですよね?前回ブログでへんな夢について語りました。その最後にわたしが叫んだのが、「モノ派で育ったわたし」!ーーーそうしたら、今日、「モノ派」にばったり!!

 歳をとるということは、過去の時間が戻ってくるということでもあるらしい。今日もある財団の仕事で都心に出て、その帰途、表参道を通ったので、ふらっと下車。5年間通ったなじみの街をぶらぶらしていたのですが、そうしたらスパイラル・ホールで、なつかしい名前が眼に入りました。菅木志雄の展覧会「集められた〈中間〉」。なんと初日!なんたる奇遇、そうか、これを観るために、突然、下車したんだったのか、と妙に納得。わたしもよく知る小山登美夫さんの六本木のギャラリーでも同時開催のようでしたが・・・最近作がずらっと並んでいて、懐かしかったですね。
 わたしが菅木志雄さんについて書いたのは、何年だっただろう?やはり表参道にあった東高現代美術館の展覧会のために書いたのでしたが・・・もちろん、書いたことは忘れています。で、家に帰ってすぐ『身体と空間』(筑摩書房、1995年)を引っ張り出して読んでみる。
 「菅木志雄の手はがっしりしている」とはじまるそのテクスト、最後は、「こうして菅木志雄の作品は、存在がたかだか時間の一時的な形態にすぎないことを教えてくれるのだが、同時に、その時間の形態が多様であり、また不思議に透明なエロスに満ちていることも教えてくれる。エロスとはいえ、しかし分化される性以前の、つまり人間的な記憶以前のエロスである・・・etc,」と書いてあります。うーん、いまのわたし、こんなにかっこいいこと言えないなあ・・・でも、まさにそうだよなあ、いまだって、そう書きたいかもねえ・・・と。
 あのとき菅木志雄さんとお会いして、きっと手を握ったのだったか。手を見たのだったか。
ひとつの道をこうしてずっと歩いてらっしゃるんだ、と。なんだか嬉しかったですね。以後、まったくお会いしたことはありませんが、テクストを書くということを通じて、わたしにとっては、ひとつの邂逅が残されているのです。
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