破急風光帖

 

★  日日行行(438)

2021.04.10

* 4月に入ってすでに10日。いつも気になってはいたのだけど、当ブログに戻って来なかったですね。「仕事」という文脈では、退職してもうそのリズムからは解放されたはずですなのですが、やはり「年度」の切り替わり。さて、この1年、どのように「仕事」をオーガナイズするかは、やはり考えます。「外」からの規制がなくフリーであるだけに、いっそう難しい。去年は、これまでに書いたものなどをまとめて3冊の本を刊行することができました。一応、過去をまとめたのだから、今年は、どうしても新しいスタートをしなければならない。どちらの方向に舵をきるべきか、迷い・逡巡、そういう混乱の季節ですね。

 でも、そうなると、なにがブロックになっているか考えてみなければならない。そうすると、やはりそれは、四元数Quartenion だということがわかる。そして実際、2017年の夏にそれをめぐって多少の思考はしていたのだけど、それが座礁したままになっていることに気がつかされる。こうなっては、もはや、このアイデアをあきらめて捨てるか、あるいはなにほどのことかを書きつけて先に行くかしかない。そういう自問自答の10日間でした。

 (閑話休題)この季節、もちろん前回のブログのように「櫻」の花の色に陶然とするのですが、もうひとつその対極にあるような、ほとんど目立たない、小さな淡い「すみれ」にも心動かされます。まさに「なにやらゆかし・・・」ですが、それは、かつて(平成10年)、「すみれの里」として知られる静岡県春野町が主宰した「すみれ文芸賞」(エッセイ部門)の審査員をつとめたことがあったからかもしれません。(そんなこともしていたんですねえ!!) その講評に、当時のわたしが書いていましたーー「すみれという花は何気ない花です。どこにでもあって、けっして目立たないのだけれど、しかし人生の重大な瞬間の場面を思い出すと、その片隅に可憐に、しかし力強くすみれが咲いていて、それが自分の、そして相手の生命のなつかしさにつながっていく、そういう花なのです」と。わたし、このときに、「すみれ」を学んだんですね。そして、「櫻」でも「菊」でもない、この野草こそが、日本の庶民の「花の美学」なのだ、と思いしったのでした。

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