破急風光帖

 

★ 日日行行 (31)

2016.04.15

櫻も散って、緑が萌え出てきています。世界のなかで再生の時が渦巻いて立ち上がる季節、人間のほうは、この気の強さに圧倒されて、いささか鬱屈したりもする。わが萌え出る芽はどこにあるか、燃え上がる火はどこにあるか、と。

 昨日、駒場で、梅の木をながめていて、新緑の葉の陰にいっぱい青い梅の実が、上のほうは花色のピンクを一刷毛残したまま密やかにぶらさがっているのを見て、なぐさめられましたね。櫻もそうですが、花が消えたあとの風情が結構、好きかな。別に我が身と引き較べているわけではありませんが(まだ、咲いてないし!)。
 先週は、フランスから友人のカトリーヌ・グルー(リール建築大学教授)がやってきて、いつものように食事をしながら、哲学の談義。彼女は、わたしと会うと、録音機を出して、ノートを広げながら話しをする。わたしの言うことに、真剣に耳を傾けてくれる世界の友人のひとりです。今回のテーマは、彼女が企画しているイベントとも関連して、「破壊」について。とりわけ2011年の「破壊」のあとの、時間意識の変化についてインタビューされました。わたしのほうは、この難しい問いに、「廃墟の時間」と「不可視の、確率的な危機の時間」との二分について語るしかありませんでした。「時間」のこの分断、それが人間から「意味の構築」の可能性を奪ってしまっているというような。そのときに重要なのが、まさにこのようなディアローグなのかもしれませんね。
 今週は、青山学院も駒場も授業がはじまり、新しい年度が回転しはじめた、という感覚。昨日の授業(駒場)でも言いましたが、人間科学の根源的な「危機」をどう突破するのか、いまこそ、ほんとうに、厳しくも、おもしろい時機、迫り来る「破壊」にどう対処するのか、人間についての根源的な思考をうたう以上、人文科学はいま正念場。これに向かい合わないようでは、たんなる「趣味」に堕したことになる。存在理由を問い直されていることを真剣に考えるべきだと思います。


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