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【報告】松田純先生講演会(「エンハンスメントの哲学と倫理」第1回研究会)

2008.03.25 └エンハンスメントの哲学と倫理

 2007年度も終わりに近づきつつある3月14日、第一回「エンハンスメントの倫理と哲学」研究会が開催された。

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 今回は、静岡大学教授の松田純先生を招き、「サイボーグ技術の臨床応用とその先にあるもの」という表題のもと講演をしていただいた。松田純先生は2007年に生命環境倫理ドイツ情報センター編 『エンハンスメント―バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』を小椋宗一郎さんと共に訳し、エンハンスメントの倫理という比較的新しい分野の先駆者として名高い。

 第一回研究会ということや、あらたに博士課程に進学する大学院生が参加するということから、松田先生には事前に、エンハンスメントにかかわる問題にこれまであまり触れる機会のなかった方にも入門編となるような個所を講演の中にもうけてほしいとお願いさせていただいた。ご負担が増えるにもかかわらず、このお願いを快くお引き受けくださった松田先生に、この場を借りて深くお礼申し上げたい。

 松田先生は、まず治療のためのサイボーグ技術として、人工内耳技術や脳深部刺激療法などを取り上げながら、インフォームドコンセントなどの臨床的な現状に触れつつ、こうした技術が人格の中枢にかかわる脳への介入という点で際立った倫理的な独自性を有するということを指摘された。エンハンスメントとは「健康の回復と維持を超えて、能力や性質の改良をめざして人間の心身の仕組みに生物医学的に介入する」(前掲『エンハンスメント』3頁)ことである。

 次いで、先にふれた入門的な個所として、人間の諸能力を高めるエンハンスメントにはどのような種類のものがあり、それらがいかなる問題をはらむものであるかを説明された。それを通じて、この問題が、医療の目的や社会選択、さらには人間観にまで及ぶきわめて広く深い射程をもっていることが示された。

 そして、人間観、あるいは人間の尊厳などについて考察する際に、人間にとって「自然」とは何であるかが重大な問題となる。かつて、人間の尊厳は神に由来していていたため、この概念のもとでは、人間は知性・自己完成能力・自由意思をもつものとされる。ビルンバッハーによれば、現在では、知性や自由意志などを有する存在という枠組みは残しつつも、それらは神に由来するのではなく、人間にとっての自然、つまりヒトという種の生物学的基盤に由来するものであると理解されるという。しかしそうだとすると、問題になるのは、この人間の尊厳概念がエンハンスメント技術となんら齟齬を起こさないように思われることである。なぜなら、こうした技術を自由意志のもと、知性を働かせて自己完成を目指してもちいることは十分可能だからである。というわけで、エンハンスメント技術にまつわる問題は、人間の尊厳に訴えることでは決着しないということになる。

 ここでいったん松田先生は、BCI(脳‐コンピュータ・インターフェイス)といった新技術やSF作品などの事例をあげながらサイボーグ技術の今後の展望を示しつつ、人間と機械(あるいはほかの動物種)との雑種化という事態が出現するという可能性を指摘することによって、人間の尊厳なる概念がここではいわば機能不全に陥るということをいっそう説得的に明らかにされた。そのうえで、人間の尊厳に代わる枠組みとして「ケアの文化」に目を向けることで、サイボーグ技術の問題点は、ケアの自動化・機械化を促すことによって、ケアの文化の基盤を掘り崩す可能性にあると論じられた。

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 講演後、短い休憩をはさんで質疑応答が行われ、「自然」概念やケア文化に立脚する人間のあり方などが主な論点となった。いずれの論点も、活発な発言が相次ぐとともに、エンハンスメントが抱える問題の倫理的・哲学的な広さと底知れぬ奥深さをあらためて痛感させられるものだったといえるだろう。そうした議論の素材を提供していただいた点でも、松田先生に謝意を表して報告を締めくくりたい。

(植原亮, 中澤栄輔)

【News】松田先生から今回の講演会を基にして論文を執筆したとのご連絡をいただきました.論文のタイトルは「サイボーグ化と人間の尊厳」.こちらからダウンロードできます.
(2008年10月20日)

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