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【報告】「本当のコジェーヴ」―マルコ・フィローニ「日曜日の哲学」

2008.03.20 高田康成, 西山雄二, セミナー・講演会

アレクサンドル・コジェーヴといえば、1933年から39年までの6年間、パリの高等研究院において、後にフランス思想を代表することになる錚々たる面々――アロン、バタイユ、クロソウスキー、ラカン、メルロ=ポンティ、イポリット、ブルトン等々――が集っていた伝説的な『精神現象学』講義(出席者のひとりでコジェーヴの友人だった作家レイモン・クノーが『ヘーゲル読解講義』として編集刊行)を行ったことで知られるロシア人哲学者である。

いわゆるフランス現代思想におけるヘーゲルはコジェーヴ経由のヘーゲルだというのはよく指摘されるところだが、それだけ戦後フランス思想にとってコジェーヴが果たした役割は計り知れないものがある。たとえばコジェーヴ経由のヘーゲル思想なしのラカン思想というのは考えがたい。しかし戦後フランス思想の出発点としていささか神話的にその名が語られる一方で、『精神現象学』講義以外のコジェーヴの活動やその波乱に富んだ人生については不当なほど知られていない。それにまた、フランシス・フクヤマによって喧伝されたアメリカ的「歴史の終焉」はコジェーヴにおいてはるかに緻密に深く展開されていた。去る3月10日(月)にUTCPで講演を行ったマルコ・フィローニ氏は、このように訴えようとしていたように思われた。

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フィローニ氏はコジェーヴの未完資料の調査を任されて『アレクサンドル・コジェーヴの生と思想』についての著作を今年上梓したばかりの若手イタリア人研究者である。高田康成先生がその論文に感銘を受けて今回の講演が実現したとのことで、司会も高田先生が務めてくださった。

上記のような事情もあり、フィローニ氏の研究調査は基本的にはコジェーヴ哲学それ自体というよりその伝記的背景の解明に重心が置かれている。今回の講演では様々な興味深い伝記的エピソードと共に、これまで知られていなかったコジェーヴの生が明らかにされた。以下、まとめておこう。

1902年にモスクワの裕福なブルジョワ家庭に生まれたコジェーヴことアレクサンドル・コゼフニコフ(コジェーヴ姓はフランスに帰化する1937年から)は進学校と家庭教師で英才教育を受け早熟な知性を見せていた。しかし10月革命によりモスクワで大学に登録することが適わなくなり、1919年、7ヶ月にわたる危険な旅を経てドイツに入国しハイデルベルク大学に登録する。そしてその哲学科で伝統と革新のせめぎ合いに直面することになるのだが、前者を代表するのが新カント派西南ドイツ学派の泰斗ハインリッヒ・リッケルト、後者を代表するのがカール・ヤスパースであった。リッケルトが哲学に極度に厳密な普遍的で科学的な体系を求めるとすれば、ヤスパースはその不動性を嫌って流動的な生の哲学を唱え、両者の対立は明白であった。確かにコジェーヴはヤスパースのもとで博士論文「ソロヴィエフの宗教哲学」を仕上げるが、後のヘーゲル「体系」の提示に示されることになるように、リッケルトら新カント派の影響も色濃く受けている。

博士論文修了後、コジェーヴはパリに渡り、ベルリンで意気投合したアレクサンドル・コイレと議論を重ねながら無神論の問題を探究する。この関心は博士論文より一貫しており、後の『ヘーゲル読解入門』の「人間学」に繋がることになる。コイレとコジェーヴを中心とする外国人研究者たちは戦間期のフランスへのドイツ哲学導入の立役者となる。そのような文脈において、コジェーヴのヘーゲル講義は行われた。ヘーゲルはロシア人哲学者の手のもとで「欲望」、「承認」、「労働」(マルクス)、「死」(ハイデガー)、「主と奴の弁証法」といった概念に沿って組み替えられ、20世紀の思想として生き返ったのである。

ところが戦後(1946-1968)には、コジェーヴはフランス政府の顧問に着任し、国際関係の重要な場面で貴重な助言を行い、フランスの政治経済に大きな影響力を有する存在として弁証法的知性を存分に発揮したようである。

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講演を締め括るにあたってフィローニ氏が強調したのは、「ソロヴィエフの宗教哲学」の研究から始めたコジェーヴの「ロシア的」、「アジア的」思考である。なるほどコジェーヴは「歴史の終焉」を唱えたけれどもそれはいわば神が地上に降りて〈人間〉そのものとなったという思考なのであって神の否定ではなく、その無神論研究=人間学もあくまで宗教的観点からの無神論研究なのだという。

コジェーヴにおいて「歴史の終焉」が宗教的なものと無縁ではなかったというのはおそらく盲点であり、今後コジェーヴ的ヘーゲルを捉えるうえで留意すべき点となるだろうと思われる。しかし一方、コジェーヴが亡くなったのは1968年だが、その頃から「人間の終焉」が議論されるようになったことを考えるなら、本講演で提示されたようなヒューマニズムを今日的な観点からどのように読むべきなのか、フィローニ氏の口吻が余りにコジェーヴ礼賛を感じさせるものだったので、やや気になるところではあった。

(文責:郷原佳以)

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