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パリ・フォーラム「哲学と教育」事後討論会

2008.01.23 小林康夫, 原和之, 郷原佳以, 西山雄二, UTCP

パリ・フォーラム「哲学と教育」に参加した4名で、帰国してしばらく経ったある寒い日の午後、事後討論会をおこなった。

フォーラムの運営に関しては、やはり第1回(2006年11月)に引き続き、時間の問題が指摘された。4時間で6名という枠組みはやはり無謀で、今後は2日間の開催にするなど、無理のないプログラム編成が今後の課題だ。

フォーラム全体の感想に関しては、第1回のときは各発表者が「哲学と教育」という主題に引きずられて主題が分散した感があったが、今回は各人が自分の得意分野に立脚しながら、この主題にアプローチしたのでかえって全体的なまとまりがあった。例えば、師と弟子の関係はほとんどの発表を貫く縦糸をなしていた。師と弟子の関係は肯定的なものか否定的なものか、政治的なものか倫理的なものか、各人が異なる見方から問いを紡ぎ出していた。師と弟子のあいだに言語が介在する以上、ディアレクティック(対話法、弁証法)の問いもフォーラム全体の潜在的主題だった。とはいえ、師の定義に関しては各人が異なってた見解をもっていたために、聞き手は各発表ごとに、議論の出発点とも言える「師」を意味づけ直さなければならず骨を折ったのではないか。最後に、ジュランヴィル氏が師の意味をめぐってダイナミックな叙述をしてくれたおかげで全体の流れがまとまったといえる。

西山雄二の発表に関しては、小林康夫から、デリダは師のステータスを自覚的に退けながらも、やはり彼はまぎれもない脱構築の師ではないのか、少なくとも自分の感覚としてはそうだ、という見解が述べられた。脱構築における不可能なものの到来を自らが実践しようとも、ゼミでデリダ本人を前にした時の実感として彼は師に他ならない。テクストのレヴェルではたしかに、師としての振る舞いは限りなく退けられても、ゼミでは彼独特の声の現前が彼を「師」――これまた独特の意味で――たらしめてしまうのではないか、この落差をどう考えればよいのか、といった問いが発せられた。

郷原佳以の発表において問われていたのは、ブランショの教育論がレヴィナスを下敷きにしながらも、いかにして彼から距離を置いているのか、であった。レヴィナスにおける超越的な師の存在は、ブランショにおいては対話をおこなう二者の〈あいだ〉として解釈される。レヴィナスとブランショの他者の位置づけの相違は教育のみならず、その他の論点においても見い出されることが確認された。

原和之の発表に関しては、ディアレクティック(対話法、弁証法)と愛の関係が問題になった。プラトンにおいては、愛がディアレクティックを外在的に規定することで、イデアに向かう上昇運動が促進される。しかし、ラカンにおいては、ディアレクティックに愛が内在しているために、他者との関係が無限循環的に反復され続ける。その場合、比較対象となっているプラトンとラカンの愛は同じかどうか、という問いが提起された。

今回のフォーラムでは討論の時間が不足したため、このように参加者だけで事後討論会をおこなった。学術的催事を終えた後で、数日経った後、ある程度リラックスした雰囲気で参加者同士で議論することは大変有意義であると実感した。各人の問いの強度を確かめ直す良い機会となった。 
(文責:西山雄二)

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