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【報告】UTCPワークサロン 「知の先史学/知のアーカイヴ学 〈批判の時代〉とは何か?」

2007.11.30 時代と無意識

『知の考古学』(1969)には、プレオリジナル稿というべき草稿が存在する。今回のワークサロンでは石田英敬教授(東京大学大学院情報学環学際情報学府)をお招きして、このプレオリジナル稿の意義とその理論的核心を語ってもらった。

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フーコー読解にとって『思考集成』と『講義集成』の出版は、既刊著作の読み方を大きく変える出来事であった。また草稿にアクセスできるようになったことも、この可能性を拡大し続けている。『知の考古学』(1969)には、プレオリジナル稿というべき草稿が存在するが、この稿はいままで充分に見ることのできなかったフーコーのディスクール理論の一側面を浮かび上がらせる可能性をもっている点でとりわけ注目に価する。講演の冒頭に以上のことを指摘しながら、石田英敬教授はこのプレオリジナル稿の意義のみならず、その理論的核心を自らの研究プロジェクトのパースペクティヴに位置づけることによって、この稿がもつ広大な射程までを示した。

刊行された『知の考古学』とプレオリジナル稿の異同は極めて大きい。世界でいちはやく草稿を見出し、通読した石田教授は、まずプレオリジナル稿の成立と刊行版との表立った違いをまず指摘した。この稿は1966年(67年説を彼は採用している)頃に書かれ――執筆期の確定はこの時代の思想的状況の密度を考えれば想像以上の重要性をもつことが強調されていた――、『知の考古学』に比してもかなり浩瀚なものとなっている。目立った刊行本との差異はチョムスキーや英米系の分析哲学がいまだ参照されていないことである。

しかし、何よりもプレオリジナル稿のなかで目を引くものとして強調されたのは、『知の考古学』におけるディスクール理論の中心にあった「言表‐出来事 l’énoncé-événement」の理論と相関関係にある「言表‐モノ l’énoncé-chose」の理論の存在である。出版された版では省かれることになったこの理論は、メディア論の基礎理論としての意義をもちうる。それは言表を実現する物質的な諸手段=メディアの理論であるからだ。

プレオリジナル稿が20世紀という同時代の言説性を問題にしている点にもまた注意が促された。フーコーによれば、私たちの時代はすべてを言うという言説の体制、すなわち「一般化した言説性の時代」によって特徴付けられるのであり、そこでは「普遍的アーカイヴ」が形成され始めている。フーコーのアーカイヴ概念は、出来事の側面だけではなく、「モノ」の側面によっても規定されるが、現代の全般的なアーカイヴ化という状況では、「言説‐出来事」よりもむしろ「言表‐モノ」の理論が、すなわち、フーコーのディスクール理論の物質的、技術的側面が照らし出されることになるのである。今回の講演の最大の強調点はこの「言表‐モノ」理論のメディア論的な意義にあったと言ってよいだろう。

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では、なぜこの「言表‐モノ」の理論は、最終的に後景に退くことになったのだろうか。フーコーが、チョムスキーの言語学や論理学における命題論、英米系分析哲学の理論から自らのディスクール理論を明確に区別するために、内在的な理論構築へと向かったゆえだと石田教授は推測している。

このメディア論の基礎理論として読むことのできる「言表‐モノ」理論は大きな射程をもつ。それはディスクール理論が純化されるときに排除されるその外部性――いわばコミュニケーションの物質性と社会性――に関わるからである。したがって、この理論は言説の外部、あるいは言説の手前の領域を扱う可能性さえ開く。たとえば、知の先史学と言うべき、フーコーの試みることのなかった身振りのアルケオロジーの可能性である。身振りの概念はまた、知の考古学とのちのディシプリンの理論とを関係付けさえもするだろう。さらに批判の時代としての「啓蒙」を文字との関連において考察する可能性を、この理論は与えることになる。石田教授によれば、フーコーは文字と啓蒙との関係を回避している。読む公衆と知の力との関係は、むしろ「言表‐モノ」を技術的媒介の問いと接続することで分析されることになろう。

プレオリジナル稿のこのような射程が示唆され講演は締めくくられたが、その後の議論は「言表‐モノ」の理論が刊行本において省かれた問題に向けられた。小林リーダーの「言表‐モノ」理論はその後別の解決をみたのではないかという問いかけには、若手のフーコー研究者である阿部崇さんが、「系譜学」の概念は、この理論を潜在的な前提としているからこそ可能となったとの見解を示した(石田教授はこの見解に同意していた)。またプレオリジナル稿と後の権力論への展開との関係、デリダとの論争との関係など刺戟的な問いもあったが、それらが充分に展開される時間的余裕がなかったのは残念であった。

最後に今回の講演資料として配布された石田教授のフーコー論を以下に掲げておきたい(本報告でも以下の論文は全般的に参照されている)。

・「フーコー、もうひとつのディスクール理論」、『シリーズ言語態1 言語態の問い』、東京大学出版会 2001、pp. 311-342.
・「メディア分析とディスクール理論」、『シリーズ言語態5 社会の言語態』、東京大学出版会 2002、pp. 283-317.

(報告:森田團)

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