Blog / ブログ

 

梶谷真司「邂逅の記録5:国際哲学オリンピック2012 オスロ大会 視察報告(4)」

2012.06.28 梶谷真司

5月16日(水) 哲学教育の主役=高校教師、その目標=未知なる世界

 今日は夕方4時過ぎに北垣先生と林先生、および日本代表の高校生2人、笠井淳吾君と中村あゆみさんに会った。長旅でみな疲れているのではないかと思ったが、北垣先生はいたって壮健でいらっしゃる。高校生二人は2度目の出場とあって、比較的落ち着いているようだった。7時からオープニング・セレモニーで、ホテル向かいのHandelsgymnasiumのホールへ(Handelsgymnasiumは日本語に訳せば「商業高校」とでも言うべきか。外見はシンプルで何の変哲もないが、中のホールは、日本語の語感とはまったく違う風格を備えていた)。

 何より印象的だったのは、高校の先生が多いこと。スウェーデン、アルメニア、ベルギー、韓国、ロシアの引率者と話をしたが、みな高校の教員。日本のように引率者が全員大学の先生というほうが珍しいのではないか。

 少し考えてみれば分かることだが、結局高校生の教育のことを一番分かっていて切実に考えているのは、現場にいる高校教員である。彼らが哲学教育の必要性を感じていることが重要なのだ。また多くのヨーロッパ諸国では、大学教授と高校教員の間の垣根がずっと低い気がした。ただ、もう一つ大切なのは、多くの国で、哲学はとくに高校の必修科目になっているわけではないということである。つまり、大半の高校の先生たちは、制度的な支えもなく、孤軍(ではないかもしれないが)奮闘しているのだ。彼らは必ずしも大学で哲学を専攻したわけではない。それでも彼らは、中高生に対する哲学教育に、強い使命感と意欲ももっている。そのへんは、日本のように大学の哲学研究者が、大上段に構えて初等・中等教育を批判し、「真なる哲学教育」の理念を唱えるのと大きく違う。

 思うに日本では、万事そうであるが、領分がかなりはっきり区別されていて、それを超えるのは、侵犯・越権行為とみなされやすい。だから超えたいほうが自分で超え、超えて来られたほうは、それに応答し互いに連携していくということが起こりにくい。お互いに遠慮しあって、あるいは自分たちの内輪に閉じこもり、相互に関わろうとしない。それがおそらく、日本でIPOへの関心がずっと、そして今も強くない理由だろう。高校生のためのイベントだから、大学教員がやるべきことではないし、哲学の教育だから哲学を専門にしたことのない高校教師がやるべきことではない、という発想である。日本でIPOの活動を広げていくさいには、そういうよく言えば「節度」、悪く言えば「臆病さ」が一番大きな壁になるのではないかという気がする。

kajitani_IOP4_01.jpg

 二人の先生(いずれも高校の教員)との話が印象に残った。一人目は、ノルウェーの人。彼女によれば、哲学教育は、批判的に物事を考え、分析していく能力の育成である(ここまでは普通の話)。だが、ノルウェーでは、その“成果”の一面として、教員の権威が失墜し、先生の言うことを聞かず、批判(というより文句か)ばかりする生徒が増えているという。おかげで先生は割に合わない仕事だと思われているらしい。それでも彼女が、とてもやりがいをもって哲学教育に取り組んでいる。失われるものはあっても、得られるもののほうが大きいということだろう。素晴らしい。

 もう一人は、ロシア人の先生である。ロシアでは子供のための哲学に20年来の伝統があり、同じく子供のための哲学で有名なフランスとは、また趣が違う独自の取り組み、メソッド・教材があるとのこと。ぜひ見てみたいが、英語などの翻訳版はないという。残念。いずれにせよ、そういう地に足の着いた地道な活動が根底にあるようだ。

 このロシア人の先生の他、多くの旧共産圏、途上国の先生から聞いた話だが、これら多くの国で、哲学教育に対して公的な組織や制度からのバックアップはない。それなのになぜそのように哲学教育への関心、需要が高いのかというと、政情不安と政治不信のせいらしい。巷で言われること、政治家が言うことをきちんと批判的に考える能力が不可欠なのだ。このようなことは、旧共産圏や途上国のように、社会的に不安定な国には、多かれ少なかれあてはまるようだ。

日本でも政治不信が叫ばれて久しいが、だからと言って、私たちは政治を見限って自分たちの資質を高めることはあまり考えず(結局面倒くさいのだろう)、政治が信頼に値するものになってほしいと願い、そのために文句を言っているだけなのではないか。逆に言うと、政治不信と言っても、所詮はその程度なのだ。日本は良くも悪くもおめでたい国なのである。哲学が必要だと言われて久しいが(おもに哲学者と哲学好きのインテリの言)、結局そんなものはなくてもやれてしまう、そういう社会なのである。そして生徒たちは、先生の言うことに従うのが正しく、実際に概して従順である。けじめがなかったりして、教員の言うことを聞かない子供はいるが、本当に反抗的な子供は決して多くない。

 しかしそれでも、「日本はやっぱりいい国だ」と悦に入ってはいられない。それは私が哲学の研究者だからでも、UTCPのメンバーだからでもない(と思いたい)。そんなことは度外視しても、やはり哲学的な思考は、日本全体で必要であり、とくにこれから育つ若い世代で必要なのだ(大人なら哲学的思考ができるというわけでは絶対にない。大人はどうせ変わりようがないから、期待しても仕方ないだけだ)。

誰もが頼みにできる価値観や目標がなくなっていくこれからの世の中では、それぞれが自らの基準をもち、目まぐるしく変化する状況の中で、そのつど必要かつ適切な方向づけをしていかねばならない。そのためには、言われたこと、教えられたことをただ忠実にアウトプットするだけではどうにもならない。吸収できるものは吸収しつつも、自分の外にあるものと内にあるものを見つめ直し、そこから新たな問いと答えを探し出すこと、そのための武器となる言葉と思考をつかみ取ること──私たちは、若い人たちとともに、こういう未知の領野に踏み出さなければならない。哲学教育とは、そのための試行錯誤なのである。

kajitani_IOP4_02.jpg

 大会プログラムはこちら→ http://ipo2012.no/?page_id=45

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 梶谷真司「邂逅の記録5:国際哲学オリンピック2012 オスロ大会 視察報告(4)」
↑ページの先頭へ