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【報告】UTCPワークショップ 「若手研究者による問題提起」

2011.12.09 └レポート, 齋藤希史, 柳忠熙, 近代東アジアのエクリチュールと思考

2011年11月26日(土)、本学駒場キャンパスで、ワークショップ「若手研究者による問題提起」が開催された。昨年までUTCPの「近代東アジアのエクリチュールと思考」プログラムに属した呉世宗氏(琉球大学)、津守陽氏(神戸市外国語大学)、裴寛紋氏(韓国外国語大学)、守田貴弘氏(東京大学)の現時点におけるそれぞれの研究関心を共有する趣旨で設けられた。

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呉世宗氏は、「「暗黒期」の〈日本語文学〉を再考する(3)——予感することをめぐって」というタイトルで、在日朝鮮人文学を検討するにあたって、「予感」という概念の導入可能性について話した。金鶴泳・金泰生・金石範・金時鐘などの在日朝鮮人の作品から、語り手の個人的な予感(例:父の暴れ)と社会的な予感(例:「日本人」と「朝鮮人」とのコミュニケーションにおける食い違い)が読み取れるという。呉氏は、冨山一郎『暴力の予感』(岩波書店、2002年)の「身構える」という発話の論理(例:沖縄のある教師の学生への発言)を批判的に捉えるべきだという。『暴力の予感』で取り上げられた沖縄の教師の「予感する」行動と、それに伴う「身構える」行動には、沖縄民と朝鮮人との間に線を引く不平等性が含まれているからである。こうした論理で構造化された「身構える」をどのように理解すべきかについても問題を提起した。つまり、呉氏の問題意識は、人々が、何を予感したのか、なぜ予感したのか、それはどのように表現されたのか、その予感は何を露呈させるのか、という多層的な質問が重なっている。呉氏は、こうした問題意識を踏まえて、植民地朝鮮で生まれて戦後日本と北朝鮮で活躍した文学者許南麒の作品を取り上げて「予感」されたものとその基盤になったこと、それらの書かれた様子を検討するための試論を試みた。許の作品は、歴史化の系、百科全書の系、その他、三つのカテゴリーで類似化できるという。最後に、呉氏は、この類似化から各カテゴリーとの関連性と、そこから植民地期の文学作品との許の作品との影響関係、そして体験を前提した「予感」の文学的な意味を探ってみる必要があるという。

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津守陽氏は、「不透明な内面——近代中国における小説文体形成の一地点として」というタイトルで、中国近代文学における「自由間接話法」の使用と作中における「内面」描写という問題を、作家の「方言」使用と関連付けて話した。津守氏は、まず18世紀の白話章回小説から、清末呉語小説を経て、林訳小説と清末文言小説までにいたる時期における間接話法の使用特徴を整理した。この特徴とは、白話章回小説は伝達部を伴う間接話法が大量に使用されたこと、清末呉語小説は台詞を方言で書きながら、思考の引用が官話で書かれたこと、林訳小説と清末文言小説は一人称の語りが内面描写に大量に使用され、自由式話法が成立されたことである。その経過のなかで、方言と思考との決別を問題にした。特に、作家沈従文の方言使用と彼の文体の変遷について「内面」発生との相関関係を取り上げて論じた。津守氏は、この問題意識に基づいて、沈従文の文体の変遷を四つの時期に分けて説明した。沈の方言と文体変遷から出現する内面描写との経過は、方言が濫用された時期、方言の減少と風景を見つめる主体を発見できる時期、方言がほぼ減少されて主体を刺激する情景描写が完成する時期、表面と反する抽象的な内面独自の手法を駆使しつつ美への観照を行う時期として説明できる。

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裴寛紋氏は、「古典注釈から文学批評へ——『源氏物語』の近代」というタイトルで、本居宣長の『源氏物語』批評が後世の『源氏物語』批評からいかに問題化されてきたのかについて、『源氏物語』の「古典化」と関連させながら話した。宣長は、従来の『源氏物語』に対する主な理解である「もののまぎれ」が「もののあわれ」の極地を示すために存在すると主張し、『源氏物語』の理解における「もののあわれ」の重要性を説いた。しかし、近代初期になって、芳賀矢一の批評のように「もののまぎれ」が有力説となる。昭和に入り、こうした状況は『源氏物語』の古典化に伴い、宣長の「もののあわれ」説を、「まこと」という国民精神が根底にあるものとして、つまり日本人の美的理念として位置付けることになる。『源氏物語』は、皇室の恋愛を描いたという理由などで「不敬」な作品として批判される一方、それに反発するかたちで、「大和魂」が含まれている作品として高く評価されており、「もののあわれ」説がその根拠として提示される。1938年『源氏物語』が小学生用教科書に採択され、『源氏物語』の古典化が現実化された、という。

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最後に、守田貴弘氏が「社会言語学と意味論の狭間——恣意性と意味の共有という暴力」というタイトルで、意味論・語用論的観点より、「自分の言葉」と「人の言葉に耳を傾ける」行動の意味について検討しながら、言語生活におけるさまざまな権力関係の回避不可能性の意味を問題とした。守田氏によれば、「自分の言葉」とは「語の使い方に関する規則を個人で定めているということ」である。「人の言葉に耳を傾ける」とは「ルールが無前提されているという幻想から覚醒すること」であり、「動機が共有できるようにすること」である。守田氏は、言語の恣意性を取り上げ、話し手の発話のなかで、聞き手に伝わっているものが「音」のみであり、「意味」は伝達されていないという。したがって、原則的に意味の共有は不可能であり、母語の習得も不可能である。我々の言語行動は、意味/概念などの普遍性を「共有」して他人に「説明」することではなく、「自分の言葉」の他人との「共有可能性」を「説得」していく行為でしかない。その「説得」の過程のなかで言語の政治性が生じるという。

この文書を書いている私は、この四つのテーマとは異なる研究をしているためか、彼らの説明を完全に理解できなかった。しかし、私にとって、このような異なる観点が共存する場を通じ、彼らと私との「接点」を考える機会になった。その意味で、報告者の発表と参加者の質問は、私に新たな「問題提起」を与えたと言えるだろう。

(柳忠熙)

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