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【出張報告】「LIRE CELINE AUJOURD’HUI―La littérature et l’expérience des limites : Céline, Colette」大池惣太郎

2011.05.10 大池惣太郎

2011年3月8日から一週間パリに出張し、フランスの指導教授との面談および個人発表を行ったほか、パリ第7大学の博士課程セミナー等へ参加しました。

【個人発表と面談】
 出張の一番の目的は、20世紀フランス文学を専門とするDominique Rabaté教授(パリ・ディドロ第7大学)のゼミで研究報告と発表を行い、今後の研究について彼から指導を受けることでした。3月9日に行われた私の発表「Présage du sinistre : Le Bleu du ciel et la guerre d’Espagne」(「災厄の予兆:『空の青』とスペイン戦争」)は、ジョルジュ・バタイユの小説『空の青』において、先取りされた災厄としての「起こりうる戦争」というモチーフがいかに通奏的にテクストを構造化しているかを見ることで、作品執筆の背景となったこの時代の特殊な緊張と小説との関係を浮き彫りにしようとするものです。発表後、教授の研究室で、これから研究を進めるためのアプローチやアイディアに関する数多くの助言と指導をいただき、大変有意義な時間を過ごしました。

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(パリ7大学の「グラン・ムーラン」棟)

【パリ7大学博士課程セミナーの様子】
 ラバテ先生の勧めもあって翌3月10日に出席した、ジュリア・クリステヴァ教授による博士課程セミナー「LIRE CELINE AUJOURD’HUI―La littérature et l’expérience des limites : Céline, Colette」では、講演者にフィリップ・ソレルスが招かれ、近年再び注目が集まっているセリーヌの再読に向けたレクチャーと議論が行われました。セリーヌといえば、多様な俗語を駆使して同時代のあらゆるイデオロギーを徹底的に挑発、嘲弄する闘争的な文体で知られていますが、ソレルスは、セリーヌを「反権威的なもの」、「周縁的なもの」として安易にカノン化するのではなく、この作家のテクストが持つ語の豊かな実験性、登録言語の多領域性、そして音楽性に一層の注意を向ける必要があるとレクチャーしました。一人一人がより深くこの作家の言葉に触れ、それを知識ではなく生きた言葉として身に携えていることこそ、文学が政治的機能を果たす際の一つの在り方なのだ、という点が強調されていたと思います。会場からは、セリーヌの左翼性に関する質問や、あるいはソレルスの見解は一種のエリート主義であってセリーヌの「ポピュリズム」と根本的に相矛盾しているといった強い批判など、活発なやり取りがありました。
 私自身がセミナーを通じてもっとも強い印象を受けたのは、セリーヌのテクストが持つ音楽性を強調するため、ソレルスが十を越えるかなり長いパッセージを豊かな抑揚をつけて朗読したことです。使っていたマイクが途中早々に故障したソレルスは、むしろ嬉々とした様子でマイクなしの朗読を始め、セリーヌの言葉が彼にとっていかに豊かな色彩を持っているかを生の声を使って実演していました。100名近い聴衆がいるにも関わらず、レクチャーの最中いつでも「聞こえません」と言って介入できるような開かれた自由な空気が会場を満たしており、非常に感銘を受けました。

【出張全般に関して】
 このほかにも若手研究者たちとの交流や資料調査など、個人的に収穫の多い貴重な滞在となりましたが、しかし振り返って滞在中の思索の大半を占めたのは、やはり日本で立ち会うことのなかったこの度の震災に関することです。私が地震について知ったのは、フランス時間の11日朝方、パリ近郊に住む友人にテレビ向けの音楽制作の様子を見せてもらうため連絡を取ったときのことで、緊張した声の友人からお前の国は大変なことになっているようだが家族は大丈夫なのかと尋ねられ、慌てて家族に電話をかけました。滞在先のホテルはインターネットの接続が不安定だったので、翌日からは友人宅へ出かけたり、カフェや公共施設の電波を使って情報を追いかけたりすることに多くの時間を使いました。私が見た限り、フランスの報道は被災者や日本政府の対応を冷静で迅速だと評価するものが大半でしたが、なかには非常時に見せる日本人のメンタリティについて、「しかたがない(On y peut rien)」、あるいは「運命論(fatalisme)」といった表現を使って説明を加えるものがあったことが印象的でした。
 滞在中、福島原発の悪化する状況を遅れた形で知るなか私がずっと考えていたのは、数日前にラバテ教授と交わした20世紀の「悪」の形に関する話でした。一口に言うとそれは、19世紀の文学や映画が「悪」を「例外的なもの」として表象したのに対し、20世紀はそれをハンナ・アレントの「悪の卑近さ」(la banalité du mal)という表現がぴったり当てはまるような姿で描く、という話です。「悪の卑近さ」といっても、「悪」が凡庸でありふれたものだということではなく、むしろ日常性の根本的な破壊であるような極端なものが、身近にかつ非局所的な形で存在する、ということが問題になっているのですが、相次ぐ余震と放射能漏れの危機を聞いたとき、私は思わずこの話を連想せずにはいられませんでした。そういえば、先日報道されたオサマ・ビン・ラディンの殺害と水葬のニュースも、同じ観点に照らして象徴的であったように思います。9.11.以後アメリカは、可視的で局所的な脅威を演出してはそれを根絶するという身振りを繰り返してきましたが、記憶の場も禁じる「水葬」の儀式は、かえって水の中に溶け込んで拡散する透明で非局所的な「悪」の姿を今更ながら露骨に示しているように見えます。もちろんこれらはずっと論じられてきたことかもしれませんが、一連の出来事を経て、それがあらためて表面に浮き上がってきている、という実感を覚えました。出張報告から話がやや逸れましたが、いずれにせよ、今回の滞在で得た経験と様々な引っかかりを、今後も研究を通じて考えていきたいと思います。

報告:大池惣太郎

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