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【報告】国語思想の形成と言語学者の役割

2011.01.03 └レポート, 齋藤希史, 守田貴弘, 近代東アジアのエクリチュールと思考

2010年12月15日,ルカ・ツリベルク (リュブリャナ大学),守田貴弘 (UTCP),安田敏朗 (一橋大学) によるワークショップ「国語思想の形成と言語学者の役割」を開催しました.

通常の報告はUTCPの研究員が執筆しますが,今回は発表者,コメンテータそれぞれのその後の感想も加えたいと思います.

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(守田)

今回のワークショップの目的の1つは,社会学の方に比重を置いた社会言語学と一般言語学や理論言語学をつなぐ議論をする場を設けることでした.日本の近代における国語思想の形成や標準語政策,あるいは欧州における国家と言語の関係は重要な研究テーマであるにも関わらず,言語そのものの「構造」を研究対象とする言語学との接点が見えず,お互いに関係ないものとして扱っている部分があります.果たして本当に無関係なのかという疑問を投げかけ,議論するという目的です.

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ルカさんは,文法が整備されることで言語が制作されてきたという欧州の歴史的展開を説明しつつ,言語と方言の境界を設定するためには文法を整備するだけではなく,文化,歴史,民族性といった要素も不可欠であることを述べました.これは,部分的には,いかにして研究対象を画定しているのかという言語学者への問いでもあったように思います.自身の発表でも述べたように,言語を言語だけで画定することができないことを了解しながら,うまく正当性を説明できていない現状はやはり問題であると考えざるをえません.
言語を「(音声と概念からなる)記号の体系/構造」,言語学を「科学」と規定する現状では扱いきれない問題があることを主張できた点は良かったものの,この大き過ぎる問いは今後ずっと考え続けなければならないことも改めて感じました.

また,標準語と方言をある種の対立構造に置くのではなく,言語として設定される成り立ちは共通していること,個人レベルのコミュニケーションでは相手と共通のコードを選択せざるを得ない以上,何からの軋轢が生じるのは不可避であるといった点で安田さんの賛同があったのは嬉しい結果でした.


(ツリベルク)

First of all I would like to say that it was a great honour for me to be invited to this workshop by Mr. Morita, especially in such great company. I was particularly happy that professor Yasuda Toshiaki, my former advisor, was participating at this workshop as a commentator, since his comments are particularly valuable to me. The workshop presented a wonderful opportunity for me to speak about my current research among researchers who share similar interests, so in company with Mr. Morita and Prof. Yasuda I could once again rethink my positions, especially since I had to reformulate them in Japanese.

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The main point I wished to discuss was that the concept of language (言語) we treat as an undisputable objective reality was actually historically created in the process where spoken vernaculars (話し言葉すなわち俗語) were conceived as written grammars (書き言葉すなわち古典文法) and thus a variety of spoken vernaculars ideologically became a standard language (標準語) with many subdivisions called dialects (方言). This new “language”(「言葉」) became the basis for the conception of modern unified and homogenous nation. (民族)

The possibility of discussing my research, while getting comments and feedback from Prof. Yasuda as well as from the interested audience, was thus an incredible experience for me. I wish that in the future there will be other opportunities, where we will be able to discuss these questions of language ideologies, formation of standard languages, national languages and so on, which are an important research topic in the world, where classical ideological concepts of homogenous nation-states (統一民族国家 ) and immutable national languages (国語) increasingly loose their validity and the need to rethink our ideas about language and nation is becoming more and more necessary.

(安田)
コメントをつけた者としての感想を、ということなので、思いつくまま書いていきたい。

ルカ報告・守田報告に共通するのは、言語に「法」をみつけることが何を意味するのか、という問題提起だったように思う。ルカ報告では、「文法」という「法」を見出し、あるいは古典文法の枠組をあてはめることで「言語」をつくりだしてきた、というメカニズムが指摘された。「方言」や「俗語」にはそれがなされなかったのであり、「法」を見出したときにのみ「俗語革命」が生じえたのである。この場合の「法」は規範性をともなうもので、その「正しさ」は恣意的なものとなる。そうでなければ、「標準語」の設定も、教育制度に乗せることもできないだろう。この「法」を自然なものとして認識させてはじめて「国語」が完成することになる。

一方、守田報告では、言語学史の流れをふまえつつ、さまざまな偏差を排したラングを設定し、それを分析する原理としての「法」がある、といった指摘がなされた。守田氏が、安田たちの議論になんとなく違和感がある、と述べていたのは、この「法」をめぐる規範と原理という二つの側面が混在していたためかとも思われる。安田は、前者の側面を批判的に検討してきたわけなのだが、「ソシュール以来100年が経ったのだから言語が記号の体系だという定義そのものを再考してみてはどうか」というほとんど思いつきに類する発言に、守田氏が乗ってくれたのはそれなりに嬉しかった。

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なお、指導学生のひとりが参加して、やりとりをきいていたのだが、あとで「先生があんなに楽しそうにしているのをはじめてみた」と言われてしまった。本務校でも楽しくできるように努力しなければ、と思ったのが案外最大の収穫かもしれない。

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最後になりましたが,司会を引き受けて下さった上に非常におもしろい質問で議論を盛り上げて頂いた齋藤先生 (UTCP)と,ご来場頂いた方々に感謝します.

(守田貴弘)

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