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【報告】UTCPワークショップ「ファンタジーの反射=反省(リフレクション)」

2010.05.18 └ファンタジーの再検討, 千葉雅也, 中尾麻伊香, 宇野瑞木

3月19日に、UTCPワークショップ「ファンタジーの反射=反省(リフレクション)」が開催された。

私たちのプログラムは、「ファンタジー」という現在では主に物語作品の一特性を(文芸、映画、ゲームなどの)ジャンルを跨いで名指すものとして流通している言葉の内実を反省し、その広範な射程に改めて光を当てようとしてきた。その取りあえずの区切りとして催された本ワークショップが期待したのは、具体的な諸作品の分析を云わば乱反射させ、そこに何かしらの像が現れることであった。
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中尾麻伊香「海野十三の空想科学小説における兵器のファンタジー」
中尾は海野十三の作品における兵器の描写を検討した。海野十三は日本SFの父と呼ばれる作家であり、1930年代後半から40年代前半にかけて活躍した。それは日本が総力戦に突入していく時期であり、この頃の空想科学小説(SF)にはさまざまな新兵器が登場した。海野の作品に見られるのは、各国の科学技術力に対するリアリスティックな視点である。新兵器を完成させるのは科学技術力において日本を凌駕していたアメリカなどの敵国であり、それに対して日本軍が特攻やユニークな対抗兵器で打ち勝つというものが多い。しかしより顕著な海野作品の特徴は、国と国、敵味方、科学と魔術などがあべこべになり、その境界が解体されていくということである。科学技術の持つ絶対的な力の正負両面に目を向け、その重要性を訴えていた海野は、日本の敗戦を予期していた。一方で戦争に伴う犠牲を描こうとし、戦後の世界を模索していた。そうした理想と現実のはざまに現れたのが「あべこべ」な兵器のファンタジーであった。それは能動的なFictionというよりは中動的なFantasia(現れ)であり、途上半ばのリアリティなのである、というのが報告の主旨であった。(文責:中尾麻伊香)
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千葉雅也「稲垣足穂の美学=感性論におけるベル クソン哲学の援用と性の問題」
千葉の発表は、稲垣足穂の初期作品における ベルクソン受容について分析した。一方で足穂は、諸存在者がひとつの持続のなかで「交響的」な絡み合いをなすというオーソドクスにベルクソン主義的な世界観を肯定している(「古典物語」1942年)。しかし他方で、足穂がこだわっていたのは、むしろ、持続の連続性への喜ばしい内在から疎外されてしまい、断片化・空間化されることの美学的意義であった(「私の耽美主義」1924年、「記憶」1929年、「美のはかなさ」1952年など)。足穂がいう「宇宙的郷愁」は、 近代都市の断片的経験──ベンヤミンがいう「ショック」の経験──に触発されて、この世界のリアリティが他なる可能世界へと分身化=解 離されつつ現れ直すときの──この現れ直しを、本発表では、足穂的なファンタジーと見なした──、その世界間における宙づりの感覚と して理解しうる。また足穂は、ベルクソンがいう持続を女性的、空間を男性的と分けるジェンダー・バイアスを前提とした上で、男女=時空を総合するものとしての「少年」を言祝いでいた(「かものはし論」〔初出:無性格論〕1926年)。 この少年愛、すなわち非異性愛的・前オイディプス的な「A感覚」の称揚は、ひとつに連続した世界が複数の (可能)世界断片へと砕け、分身化してしまうという、その危うい(世界)同一性喪失のバランスを問うものである。(文責:千葉雅也)
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宇野瑞木「『となりのトトロ』試論―背景がキャラクター化する瞬間」
宇野の発表は、1988年4月に公開された宮崎駿監督作品の『となりのトトロ』について、『トトロ』と同時併映され、あらゆる意味で「不可分一体」であった高畑勲監督作品『火垂るの墓』と比較しながら、アニメーション作品として実写と異なるいかなる表現を成立させているかを分析した。両作品が使用したセル・アニメーション技術においては、背景とキャラクターは基本的に分割されているが、『トトロ』では、この不可侵な関係性が揺らぐ瞬間がある。背景が背景にもかかわらず、突風に煽られ風景全体を激しく動かすために、本来キャラクターを動かすためのセルで描かれるとき、背景はキャラクターの次元まで前景化してくる。そもそも『トトロ』は、『火垂る』に比べ不安定な風景を描いており、夏のコントラストの強い光と影、水の蒸発の速度、木陰の揺らぐ瞬間のみならず、「気配」がこの映画の主人公といってもよいほどの存在感を放つ。要は、トトロもネコバスも何かの動物の声や気配、あるいは普通ではない風、といった感覚に訴えてくる「明確な何か」がある姿をとって表れてきたものである。それがメイ達の感覚の研ぎ 澄まされる瞬間に、全画面セル動画という異質な空間によって表現される。こうした画面の質感の変化は、メイたちの感覚と観客のセンサーの鋭角化を連動させる、実写と異なるアニメーションならではの表現といえるだろう。これを仮に「背景のキャラクター化」と呼ぶなら、宮崎作品においてそれが最もあからさまに行われたのが『崖の上のポニョ』であるといえる。また、「背景のキャラクター化」という現象は、千葉の足穂論における鍵概念「断片化・空間化」と何らかの仕方で接続する可能性もあるだろう。最後に、大木のウロに住むトトロが風になる意味について、トトロの咆哮に着目しながら、『荘子』の「地籟」と結びつけて考えた。(文責:宇野瑞木)
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星野太「現出の中動態――パンタシアー/イマギナツィオの変貌」
いずれも具体的な作品を分析対象とした前半の三者の 発表に対し、星野は「ファンタジー」という言葉の起源を、ギリシア語の「パンタシアーphantasia」に遡りつつ紹介した。本発表ではまず、プラトン、アリストテレス、初期ストア派における「パンタシアー」概念を 検討した上で、そのラテン訳であるimaginatioという語の登場、およびその後の時代においてこれらの用語がたどった変遷の概略を提示した。その大きな流れは次のようなものである。一方で、感覚を認識へと橋渡しする能力として「パンタシアー」を規定したアリストテレスの見解は、その後カントの「構想力」にいたるまで脈々と受け継がれることになる。他方で近代になると、本来同一の起源をもっていたはずの「空想fantasy, fancy」と「想像力imagination」は、しばしば互いに異なる二つの概念として区別されることになる。特に15世紀以降、後者の「想像力」はしばしば「空想」に対して優位に置かれることになるのだが、その典型的な例となるのがボードレールの「1859年のサロン」である。今日われわれが「ファンタジー」に対してもつ「(実質をともなわない)空想」という印象は、こうした変遷に根ざしている。しかし、近年ジャッキー・ピジョーが指摘したように、ギリシア語の「パンタシアー」概念はそもそも広義の「現われ」を意味するものであり、本質的には能動的でも受動的でもない、中動的な性格を有している。本発表では、「パンタシアー」が本来的にもつこの中動的な性格に着目することで、fictionなどとは異なるfantasyの独自性を打ち出すことができるのではないか、という問題提起を行った。(文責:星野太)
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あらゆる現れは、或る基底的な諸可能性の集積が活性化されると共にそこへ様々な制限が加えられることによって生じる。例えばふと思いついた人影が女性「ではなく」少年であり、学生服「ではなく」軍服を着ていた、というように。いかに想像力豊かな「ファンタジー」も人間の有限性に根差すこの制限力のもとにあり、連続的に見える「現実」世界の現れもまた実らなかった無数の可能性を刈り込むことで成立している。そしてこの刈り込みがしばしば不完全であるからこそ、知覚の真偽といった問題が生ずるのである。私たちが構想するファンタジー概念は、こうした現れの機制全体を或る具体的な現れそのものを通して垣間見せ、問い直すような営みであると言えよう。それは一方で、専ら理論的で形式的な探究の素材あるいは足がかりとなり得ると同時に、優れて具体的でアクチュアルな行為でもある。そこで問題化されるのは、例えば基層にある諸可能性の歴史的由来と性格であったり、現れの制限性への居心地の悪さとそこからの逃走を象徴する形象の探究・提示であったりする。そしてこうしたファンタジーの実践は、現れの現実的‐歴史的な条件そのものを常に変形させてゆくのであり、結局この変形そのものはついに自らを現すことができない(それはせいぜいいつも遅れて、しかも曖昧な姿でのみやってくる)。が、にもかかわらずそれはやはり何らかのかたちで経験されてしまう。おそらくは古来「情」として知られてきたものを通して。虚実を問わないあらゆる現れのさらに手前にあるこの情緒(それは実のところ最強度の現実性を持っている)とは一体何であり、どう扱われるべきなのか。ファンタジーを巡る私たちの問いはなおも続くことになる。(以上、各論報告以外の文責:串田純一)
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(上の写真は、コメンテーターの串田純一氏)

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