歴史=物語というものが本質的になんらかの「終わり」に向かって進んでいくダイナミズムであるとして、しかし、もしたとえば、その「終わり」の「終わり」、つまりあらゆる「終わり」の「終わり」、端的に「世界の終わり」が、不思議なことに全体的に現出しているというのではなく(そんなことになれば、それを経験することも不可能なわけだから)、それでも、まるで最近の物理学のトピックのひとつであるブラック・ホール、あるいはお好みならば、あの「超・紐」の端のような「穴」としてすでに、この時空、この「時代」のどこかに、いや、そこらじゅうに、わたしのすぐ身近にすら、ぽっかりと「ある」という感覚――畢竟、感覚でしかないが、しかし感覚特有の「クォリア」を発散させていないわけではない――をわれわれの「時代」のひとつの徴候と認めるとしたらどうだろう。