Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 18: 〈歴史の真理〉に向かって (18)   小林康夫

昨年2008年は、世界の歴史における不連続の断絶とまでは言わないにしても、徴候的な転回点ということになるのかどうか。

《金融危機》と呼ばれた危機。

ある意味ではローカルな、部分的であるべき危機が、ほとんど時間を置くことなく、そのまま地球規模で一般化し、グローバル化し、いつのまにか日々メディアが伝える報道は、企業の赤字、経営の不振、失業の増大……不安をかきたてる現実ばかりである。

ある種のファンタジーのもとで覆い隠されていた現代の資本主義の本質があからさまに露呈したと理解するべきなのだと思う。
 

もとより専門家ではないわたしには、この危機の構造を現時点で明確に把握する力はないが、しかしさまざまな解説を総合すれば、ともかくもアメリカ合衆国の、おもに住宅を中心にした巨額の貸し付け(低所得者向けサブプライム・ローン)を細分化して、証券化し投資の対象になるようにしたことが大きな因のひとつであることは動かない。

つまりリスクを細分化しパッケージし直すことによって、それを将来の利益の可能性へと変容させたというわけである。

ある意味では詐欺にも近いようなこのマジックは、もちろん「格づけ」の問題などいろいろ複雑な仕掛けが用いられてはいるが、しかしまた他方では、厳密な確率論的方程式に表現される技術的なものによっても支えられていた。

つまりここにあるのはテクノロジーなのだ。

このテクノロジーは、物質に働きかけるのではなく、価値に働きかける。

もはや巨大な力の解放を目指すテクノロジーではなく、価値という量を操作して、それを当初の市場における貸し手・借り手という相互的な関係から引き離し、もっと一般的なグローバルな金融市場へと翻訳変換し、引き渡すソフトなテクノロジーである。
 

そしてすべてのテクノロジーがそうであるように、これもまた人間の営みから出発して、それを人間の尺度を超えた巨大量へと転換する。

あえて単純化するなら、ここには階層的な二重の市場がある。

つまり使用価値や交換価値に裏打ちされたリアルな市場と、その価値に未来の時間を導入して、「価値の価値」つまり「価値の期待値」を取引する市場、言い換えれば取引そのものが価値を形成することにほかならない市場である。

そのもっともあからさまなケースが、未来の商品取引を取引対象とする先物市場ということになるのだろうが、いずれにせよ、価値が時間変動するということ、しかもその変動そのものが投機の対象となることによって変動が、ほとんど自己言及的に、より活性化され、過激化されるということは確かだろう。
 

言うまでもなく、と言っていいのだと思うが、これはもっとも純粋な資本主義の原理である。

すなわち、一般化された交換(市場)によって価値が一元化されると同時に、その一元化が(未来の)時間を差異へと繰り込む二次的な、より高次のメタ操作を可能にし、その本質的にダイナミックな操作システムが次々とより多くの人々を巻き込んでいくプロセス。

資本主義はダイナミックな開放系のシステムである。

それは、本質的に、境界拡張的であり、そのことによって、自己更新、自己組織を行なっていくシステム。

そこには最終目的、あえて言うならば「終末」は設定されない。

時間は無限に更新可能であり、無限に価値増大が可能であり、すべてはたかだか世俗的な、世間的な未来時間においていくらかの──しかし可能ならば、莫大な──価値増大Δ、少なくとも価値保存が得られることである。
 

重要なのは、──すでに本連載の第12回でも言及したことだが──この価値増大は、けっしてかならずしも労働の結果ではないということである。

もちろん単純化し、戯画化したスキームにすぎないが、このシステムの参加者、つまりエージェントは、リスクに対する不安に襲われながら、しかし未来の非本来的な時間における価値に対して「決意」し、みずからが現在もつ価値を投資=投機=投企する。

だが、その価値増大のために、エージェント自身はいかなる努力もするわけではない。

つまり労働をする必要はないのだ。

覚悟性をもって「決意」しさえすればいいのだ。

もちろん価値増大のためには、どこかで労働が組織され、システム化され、そして現実が新たにつくり出されなければならないだろう。
 

だが、じつは、「労働」とは、まさにこのような人間の尺度を超えた量を扱うためにシステム化された人間の活動にほかならない。

人間の本来的な労働が、資本主義システムのもとで非本来的なかたちに疎外されるというよりは、資本のシステムが、「機械」と同様に「量」に結びついたものとして「労働」という機能形態を必然化したと考えるほうが現実的ではないか。

その意味では、労働は、人間の生存が資本のシステムに組み込まれることなしには可能ではない状態、つまり人間の生産活動が「大地」から切り離され、テクノロジーと結びついたシステムの一ファクターとなるという事態に対応している。

それは、価値の一元化に対応する時間の一元化によって、つまり労働時間とその賃金対価によって、管理されるものとなった生産活動である。

そしてこの機能形態は、資本主義における人間の存在様態そのものの規定なのであって、もちろんいわゆる労働者、しかも単純労働者の姿のうちに原型的な形象がくっきりと刻み込まれているとはいえ、しかしそれは──「純粋な資産投資家」を除外して──資本主義社会のほとんどすべての人が否応なく巻き込まれていく形態なのである。

労働は、労働者の非本来的な固有性というよりは、むしろ資本主義社会に固有な活動の形式であり、それゆえにこそ、それだけでたとえば「階級」というような政治的な主体を仮託することは、不可能ではないにしても、極度に困難なのだ。
 

ここで急いで付け加えておくべきことは、資本主義は一方では、価値の一元化に基礎づけられているが、同時に、システムの機能性という拘束によって、同時に、多様な、しかも部分的にヒエラルキーがないわけではない能力の導入を必然化しているということである。

誰もが認めるように、資本主義社会は、能力評価の社会、つまりは端的に競争的な社会である。

労働は一元的な労働時間の尺度によってではなく、時間と能力との積によって管理され、しかもその単位は無数に多様である。

能力とは、与えられたシステムにおける機能的管理運営能力であり、また、そのシステムのなかに機能不全を生じさせずに組み込まれる能力である。

資本主義における合言葉は「あなたの能力はなにか? あなたはなにができるか?」である。

資本主義社会のなかで育つ子どもは誰でも生まれたときから、この問いにさらされ続けて生きる。

資本主義においては、存在は能力へとたえず翻訳されることになる。
 

労働=能力、おそらく、これこそが人間に関する資本主義の核心的な「哲学」である。

すなわち、存在は、価値のシステムの内に存在し、そこでみずからが「できる」ことにおいて価値づけられている。

能力こそが、システム内存在にとっての「存在の意味」なのであり、しかもそれは、どのようなかたちであれ、現実的に評価可能なものとして考えられることになる。

資本主義のもとで存在の意味は徹底して実証的なもの、広い意味で計算可能なものとなる。
 

言い換えれば、資本のもとでは、存在はシステムの外へと追放され、疎外されている。

しかし同時に、資本主義のシステムが人間の尺度を超えて生み出す巨大な余剰は、これまでにない規模での生の、──もちろんしばしば性を伴った──享楽を可能にする。

資本主義は、さまざまな境界を超えて、しかも大量の、いや、限りない消費=享楽を生み出す。

労働=能力と消費=享楽は資本主義の核心的な「哲学」のまさに表裏をなしているのだ。

消費=享楽においては、存在は忘却される。

世俗的で、世間的な「存在の享楽」を通して、存在はみずからを超出する。

資本主義は、こうして消費=享楽するべき時間として現在を確立する、と言ってもいいかもしれない。

もちろん、このような消費=享楽は、とりあえずのこととしては、ブルジョワのものであり、いわゆる労働者はそこから締め出されているかのように見える。

だが、労働がそうであったように、消費=享楽もまたほとんどすべての人々を巻き込んでいかないわけにはいかない。

労働と同様に、それと対をなす享楽の一般化こそ、資本主義社会のもうひとつの公準にほかならないのだ。
 

そのうえで、もう一度、能力という問題に立ち戻ることにしよう。

人間の存在の意味が能力に収斂するのは、資本主義が経験的な技術に依拠するのではなく、つねに技術革新を行なって、それを大量の価値増大に結びつけようとするからである。

資本主義は計画という形式のもとではなく、あくまでも革新という形式、より多くの価値を効率よく生み出すシステム革新の形式において、未来を展望しようとする。

それゆえ、資本が運営するシステムはどんどん高度化し、それに応じて、必要とされる能力も多元化し、多様化し、高度化する。

教育は、近代の国民国家が「国民」形成のために整備した啓蒙という理念を土台としながら、しかしそれを超えて、それぞれ異なる専門的能力の教育へと重点を移すことになる。

能力が存在の価値であるとしたら、教育とはその価値増大への投資=投企にほかならない。

「生-政治」の上に「教育-政治」が重ね合わされなければならないのだ。
 

だが、同時に、能力中心主義は、当然のことながら、社会のなかに、能力のある者と能力のない者の分断を招き寄せる。

(いまだ)能力のない者を能力化するのが教育なのだが、しかしそれでもなお、高齢、障害、疾病、その他さまざまな要因で、能力のない者、あるいは失業などの理由で能力があっても場がない者が存在する。

こうした存在は、──昨今のように、その存在自体をビジネスの、つまり価値増大の対象としてシステム化することが行なわれているとはいえ、そしてそれが資本主義の、ある意味での、全体化を示すとはいえ──原理的には、システムの効率を第一目的とする資本主義からは切り捨てられてしまう。

切り捨てられた者は、家族やそのほかの共同性がその存在を引き受けることになるのだが、すでに資本主義は、あらゆる共同体から離陸し、それらを横断的に、部分的に解体してしまっている。

となると、もちろん、「生存の技法」を駆使して資本主義のシステムの隙間や余白にかろうじて寄生することができる少数の創造的な「能力ある者」がいないわけではないだろうが、一般的には国家という最終のシステム共同体の保障システムに頼るしかないことになる。

国家は、資本主義の価値のシステムを補完するものとして立ち現われてくるのである。
 

だが、単にセーフティネットとしての社会保障や、破綻企業の救済という経済的な価値とは別なものが国家という共同体に求められることもある。

存在の危機は存在の意味を希求する。

そこにもうひとつの逃亡線が引かれないわけではない。
 

唐突だが、昨年の秋葉原の殺傷事件、文字通り資本のシステムから排除され、見捨てられた犯人の青年の「誰でもよかった」という発言は、その行動がありうべき共同体へのもっとも直截的な、そして絶望的な訴えの叫びであったことがうかがわれる。

そこにはみずからの現実的な救済ではなく、ただその存在の意味を究極の共同体へと投げ出すように問うという構造があると思われるが、当然のことながら、それを受けとめるべきは、至高の共同性である国家でしかありえない。

能力でも享楽でもない、存在の純粋な意味として、ほとんど供犠のプロセスにも似て、法が呼び出されていることになる。
 

われわれの時代において、国家は、それ自体、巨大な経済システムであると同時に、ネーションステートとしての共同性の「場」であるという二重性を抱えている。

資本主義の時代のポリティックスのひとつの次元は、国家のレベルで、この二重性のあいだにどのような調停を実現するかにかかっている。
 

すでに膨大な財政赤字を抱えた国がそれでも資本主義の安定のために、自由市場という原則を破ってまで巨額の税金を破綻企業につぎ込むということもある。

あるいは景気浮揚という名目で国民に「意味ありげでしかない」お金をばら撒くということもあるらしい。

だが、資本主義のポリティックスからすれば、どのような場合においても、すべての人がつねにみずからの能力形成、能力の更新を行なえるようなシステムが整備されていなければならないはずである。

しかもそれは社会の共同性のなかに根づいているべきだろう。

資本のシステムを、継続的に補完する社会のシステムに対して国家は「投資」をするべきではないだろうか。


↑ページの先頭へ