Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 12: 〈歴史の真理〉に向かって (12)   小林康夫

わたしが拠点リーダーをつとめているUTCP(「共生のための国際哲学教育研究センター」)では7月の末にシカゴ大学からモイシュ・ポストーン教授を招いて3回にわたるセミナー・シリーズを開催した。

ポストーンは、1993年にケンブリッジ大学プレスから『時間、労働、そして社会の支配――マルクスの批判理論の再解釈』☆1という大著を出版していて、そこではとりわけ『資本論』の徹底した読み直しを行なっている。
 

わたしはUTCPの活動の一環として「時代と無意識」という教育研究プログラムを受け持っていて、本連載では、それと連動しながら、そのときどきのわたしの拙い思考の一端をかなり自由に書きとめているのだが、そこでのわたし自身の関心は、簡単に言えば、われわれが生きているこの「時代」の歴史性をどのように記述し、それをどのように批判しうるのか、あるいは「批判」とは別の行為が可能なのかどうか、を考えることにつきる。
 

このような試行=思考は、当然ながら、われわれの「時代」においては、どうしても「資本」を問うことを避けては通れない。

資本を問うことはすでに当初より計画されていたのだが、三月にニューヨーク大学で開いた「時代」についてのセミナーのなかで「資本(論)」をめぐって発表してくれたオタワ大学のヴィレン・ムーティが、かれ自身の先生でもあるポストーンを推薦してくれて、そこから招聘が決まった。

仲介役をつとめてくれたムーティも同時にわれわれの招待で東京に滞在中で、期せずしてポストーン+ムーティの師弟セミナーが実現したことになる。
 

実際は、わたし個人としては、まだ資本について自分なりの問いを発する準備ができてはいなかった。

その限りでは、不十分なままの応接となったが、逆に、その三回のレクチャーは資本について考えるよい契機になった。

ここでは、おもに「マルクスの批判理論を再考する」と題されたポストーンの最初のレクチャーをもとにしながら、かれの理論の忠実な紹介というよりは、むしろそれに触発されたわたし自身の思考の軌跡を書きとめておく。

 

これはポストーンのマルクス再解釈の帰結のひとつであって、その意味では順序が逆になるのかもしれないが、資本を歴史の主体として考えるということがある。
 

たとえばかれは言う――

「興味深いことに、資本というカテゴリーを導入しつつ、マルクスはそれを記述するのに、ヘーゲルが『精神現象学』において「精神」Geistに関して用いたのとまったく同じ言葉を使っています。すなわち、自己を動かす実体the self-moving substanceであり、それはみずからの過程そのものの主体である、というわけです。このようにして、マルクスは、ヘーゲル的な意味における歴史の主体が実際に資本主義のなかに実在することを示唆しているのです。ただ、そしてこれは決定的に重要なことなのですが、マルクスはこの「主体」を(たとえばルカーチがしたように)プロレタリアとは同一化していないのです。人間一般humanityとも同一化していません。そうではなく、マルクスはそれを資本と同一化しているのです」。
 

ポストーンのマルクス読解は、テクストに基づいた読解というよりは、それを独自な仕方で論理的に、ということは抽象的に再構成していくやり方で進んでいくので、わたしのように(デリダ的な)テクストの脱構築に馴れている者からすると、どうも自己完結した論理が空から降ってくるような趣きでなかなかその思考についていけないのだが、しかし資本が歴史のいわば「主体」として登場してくるのはわたし自身の思考とも合致していて首肯できる。
 

資本とは歴史的なダイナミズムそのものであり、それは自己の外部にテロスをもたない、それ自体の終わりなき自己拡張のダイナミズムの運動そのものであるというわけである。
 

この資本の運動に照準をあわせるためには、従来の資本主義批判が前提としていた、まさにプロレタリアの自己実現を歴史のテロスとして設定する理論的な枠組みを根本的に変える必要がある、というのがポストーンの根本的な主張で、すなわち「生産手段の私有化と経済市場によって構造化された階級支配の関係」という伝統的な理解とは異なる資本の分析をマルクスから引き出さなければならないことになる。

第3回目のレクチャー後の討論では、聴衆のひとりより、『時間、労働、そして社会的支配』の末尾を占める膨大なインデックスに「革命」revolutionという言葉が挙げられていないという鋭い指摘があったが、その小さな事実が端的に示しているように、ポストーンの「マルクス」はなによりも、ある意味で脱・政治化されたマルクスでもある。

もちろん、かれ自身は、資本そのものが政治的、経済的、文化的、その他あらゆる諸関係を通じた「社会的支配」の関係そのものなのであり、それを「克服する」可能性はそのなかからしか生み出されないと答えるのだが。
 

それでは――これもレクチャー後の質疑で提起された問題のひとつだったが――この資本ははたしてヘーゲル的な弁証法を踏襲するのか、それとも違うダイナミクスを展開するのか、などいくつかの疑問点がないわけではないが、ここまでの枠組みはよしとしよう。

それは、冷戦体制の崩壊、グローバル化する資本主義などこの三十年間あまりの世界の歴史的な変化に立脚して、あらためて資本というこの「妖怪」を理論的に問うという作業である。

だが、それをなぜあらためて、マルクスからはじめなければならないのか。
 

実はポストーンがマルクス――「成熟したマルクス」とかれが呼ぶマルクス――から主にすくいあげるものは、単純化しすぎかもしれないが、価値という問題設定のなかでの労働と商品そして資本のあいだの連関である。

マルクスにとっての歴史的な現実を反映した「根本的なカテゴリー」が商品であり、それが「社会的な主観性と客観性双方の形態」であることを述べたあとで、かれは言う――

「(……)労働の歴史的な特殊性についてのマルクスの考え方をはっきりさせなければなりません。マルクスは、資本主義において労働が《二重の性格》をもつことを主張します。つまり《具体的な労働》と《抽象的な労働》です。《具体的な労働》は、われわれが労働活動とみなすものが、あらゆる社会において、自然と人間との相互作用を媒介するという事実にかかわります。《抽象的な労働》は、単にこの《具体的な労働》一般にかかわるのではなく、それとはまったく異なるカテゴリーなのです。それが意味するのは、資本主義においては、労働もまた独自の社会的な機能をもつということですが、その機能はしかし、ただ単にそうした労働活動に内在するものではない。それは、社会的従属という新しい形態を媒介するものなのです。」
 

さらにかれは以下のように続けている。

「商品が(社会)全体を構造化する基本カテゴリーであるような社会においては、労働とその生産物は、伝統的な社会の結びつき、つまり規範とか、権力や支配といった超関係、つまりは明白な社会関係によって、社会的に分配されるのではない。そうではなくて、労働それ自体が、他者の生産物を取得するためのある種の準・客観的な、必然的な手段として機能することによって、それらの社会関係を代替するのです。」
 

わたしの不十分な理解では、マルクスはまさに労働という具体的な活動、しかも普遍的な、人間に「内在する」活動を本質として立てることによって、ヘーゲルの《絶対精神》を転倒させた。

そこにこそ、ある意味ではプロレタリアという理念が歴史のなかに「根づく」根拠があった。

プロレタリアとは、単なる労働者ではなく、歴史のうちにその自己実現を投げ出した「人間」でこそあったわけだから。

だが、ポストーンは、このような理解は、「歴史横断的」な概念に依拠した理解として斥ける。

それは《具体的な労働》としか相関しない。

そうではなくて、資本主義において、その労働が商品化され、抽象化され、そして社会化され、さらには歴史化されることを見なければならないというわけである。
 

だが、ここにはある種のアポリアがある。

一方では、ポストーンは、労働という概念を守りつづける。

そしてそれこそ、まさにマルクスがかれにとって必要である理由でもあるわけだが、人間存在の本質については、それに代わるものを提起はしない。

にもかかわらず、他方では、そのような歴史横断的な人間理解を否定して、マルクスの思考を厳密に、その時代の歴史のなかに置き直すことを主張する。

だが、その結果は、労働が商品化され、抽象化され、それによって、あらゆる社会関係の支配そのものを引き起こすということにすぎず、最終的には、きわめて抽象化された定式にしか辿りつかない。
 

おそらく、ここにこそわたしがポストーンのレクチャーを聞きながら一貫して感じていた違和の因がある。

「価値は、マルクスによれば、ただ人間の労働-時間の消費によってのみ構成され、そして資本主義においては富の支配的な形態なのである」とポストーンは言うのだが、わたしには、それこそがマルクスとわれわれとを隔てる深い歴史の深淵と響くのだ。

すなわち、わたしにとっては、労働という、それでも個人的な具体性に裏打ちされていないわけではなかった人間性の本質が、もはや全体としては、けっして価値を保証しないことこそが問題だからである。

ポストーンが《ルームランナー》treadmillと名づけている、資本主義における価値の自己増殖的なダイナミズムは、もちろんいまだに労働をそのひとつの確かに重要なファクターとして含みこみ、労働を管理し、操作しているが、しかしにもかかわらず労働は価値のダイナミズムのもはやいくつもあるファクターのうちのひとつにすぎないのではないかと思われるのだ。
 

実際、われわれはすでにそのような事態を何度も目の当たりにしているわけだが、ヘッジ・ファンドなどほんの一握りの決定者が扱っている資本を引き上げ、移動させるだけで、最悪の場合には、一国の経済全体が破綻に直面する、そのような価値のシステムこそが、いまこの世界を覆っているのである。

こうした価値の極度にダイナミックな変動はもはや、けっして労働によってもたらされるものではない。

労働が生産物を生み、それが価値をもって流通する、というのではなく、すでにそのような第一次過程そのものを前提として、それに対する第二次的な過程、あるいはさらに高次な過程が複合的に機能しているのだ。
 

それは計画=投企の過程であり、さらには投機の過程である。

労働はもはやそのような複雑で膨大な資本の多重構造のシステムに、あたかも「寄生」するかのようにしてしか存在できない。

そこでは労働の可能性すら自明ではないのだ。

労働がみずから場所を得ようと思えば、社会全体のダイナミズムのなかで、みずからを投機的に、あるいは教育的に養成する必要すらある。

労働はその能力を社会的に形成されるべきものとしてある。

すなわち、逆説的だが、労働すらもが、もはや「商品」としてではなく、「資本」として振る舞わなければならないのだ。
 

投機であれ、投資であれ、さらには投企であれ、われわれは、未来の時間を先取りし、その未来の価値の増殖拡大のために、過去の蓄積を投下し、現在の価値を投入しなければならない。

価値はつねにわれわれの「前」にある。

そしてそのように存在のすべてにわたって「前」に投げ出されていることこそが、われわれの存在の歴史化であり、そのように駆り立てる時間こそが「歴史的な時間」にほかならない。

とすれば、そのようなダイナミズムこそ、実は、労働よりもさらに一般的な人間の本質なのかもしれないのである。

資本こそ、「種」としての人間にとっての根源的なあり方なのかもしれないのだ。
 

いずれにせよ、ポストーンにとっても、またわたしの思考にとっても、問題の核心は「時間」ということになる。

ポストーンは「資本主義における社会的媒介の根源的な形態は、時間による人々の支配である」と言うのだが、――もしわたしの理解が間違っていないとして――その時間が労働から出発してたとえば「労働時間」として抽象化された「時間」なのか、それとも「時間」そのものがみずからを価値として現在のなかに刳り込むような「投- 」の「時間」なのか、というところにかれの理論とわたしの思考とのあいだの小さくはない隔たりがあるように思えるのだが、それはもう少し慎重に検討してみなければならないだろう。

☆1 Moishe Postone, "Time, Labor, and Social Domination/", Cambridge University Press, 2003.


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