Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 3: 〈歴史の真理〉に向かって (3)   小林康夫

非人間的なまでに巨大な、無名のエネルギーというプロブレマティックの迷宮のなかを漂流しているところであった。
 

この間に、新聞報道等によれば、国連環境計画(UNEP)の「第4次地球環境概況(GEO4)」が発表された。

5年ぶりの改訂だそうだが、その「Main Message」は「人類の生存そのものが危機に瀕している」という強い表現による警告になっている。
 

この報告書の全文はウェブサイト(http://unep.org/geo/geo4/media/)で読むことができるが、この20年間のあいだで、人類と地球の環境がすさまじい「速度」! で変貌していることが、それぞれいくつもの指標、つまり「量」によって報告されている。

それを報じた朝日新聞の記事(11月7日付夕刊)を引用するなら、「87年から20年間で、世界の人口は50億人から67億人に増えた。貿易量は3倍になり、1人あたりの収入は40%増加。こうした社会・経済面の激変が、環境の変化を引き起こしている」ということになる。
 

ある意味では、人類は全体的には、人口が途轍もない速度で増加するのをゆるすほどに、かつてなかったほど豊かに繁栄しているとも言えるわけだが、そのグローバルな「繁栄」が、水や空気といったもっとも基本的な環境次元に深刻な汚染窮乏をもたらし、温暖化による地球環境全体の劇的変容を加速し、しかも地球の他の多様な(生物16,000種以上)を絶滅の危機に追い込み、しかも人間社会そのものも、ほんの一握りの富裕層が富を一人占めして、貧困格差は広がる一方というわけである。
 

この「現実」、この「時代」に対して、思考は、哲学はどのように応答するのか。
 

いや、それとも、応答するなどということは夢にも考えず、すべては政治の問題であり、あるいは技術の問題であると整理して、たとえばこれまで通り「哲学」のなかに、あるいは「認識行動分析学」のなかに、無疵の――ということは「人類の生存そのものが危機に瀕している」という事態とは無関係の――「真理」を探し求めつづけるということなのだろうか。
 

事態ははっきりしている。

人類の文化――人類が産み出し、人類の生存の圏域である文化(政治も技術も経済も哲学もすべては文化であるにちがいない)――が、そのエネルギーの「量」において、数万もの他の生物種を絶滅させ、地球の自然環境を変容させ、さらには、そうしながら人類みずからの生存すら危機に追い込んでいる。

このほとんど倒錯的な、自己崩壊的な「危機」に対してはたして思考は無関係でいられるのだろうか。

この災厄(=凶星)はまさに思考がもたらしたものではないのか。

そしてそうだとすれば、そこにはむしろ思考にとっての重大な使命があるのではないか。
 

だが、同時に、この現実に対して思考がまったく無力であり、非力であることも確かだろう。

二酸化炭素の「量」を減らす、という具体的な目標に対して貢献しうるのは、技術の力であり、それを適用する政治の力であり、さらには経済の力である。

そこでは具体的な、計算可能な提案だけが実効力を持つ。

「2025年までに18億人が水不足」の状態に置かれるという問題に直接的に寄与できるのは、技術・政治・経済・社会を結ぶ高度に複雑で、多元的な持続可能性のモデルであり、それを生み出す「デザインと行動」の思考だけである。
 

「量」は計算を要求する。

しかし「量」は指数関数的な連続性をもっており、それが急激な相転換を引き起こす。

そのことによって、人間の尺度――たとえば「手」――が適応している連続性の世界に根づいた意味が無効になり、少なくとも次元的に限界づけられた部分的なものでしかなくなることが起こりうる。

わたしがこれまで述べてきたことは、そのような「速度」の「時代」にわれわれが突入しているということだけである。
 

だが、「量」には、大小がある。

モデルニテの前期は、なによりも人間的な尺度を超えた巨大な量が問題になっていたが、しかし第二次世界大戦というそうした「文化」の究極的な狂乱(蕩尽としての戦争)をゆるやかなピークにして、「量」の文化は、転回する。

すなわち、巨大な量の方向へではなく、微小なスケールへと「科学」の最先端が転回するのである。

われわれはいまや、人間的な尺度を圧倒的に超えた微細なものの領域において、すさまじいばかりの世界革新を行っている。
 

モデルニテにおいて、人類はある意味でははじめて、物質に直接に手を触れた。

「もの」ではなく物質。

物質のもっとも微細な構造をコントロールすることで、なにしろ物質そのものがエネルギーなのだから、巨大なエネルギーを手に入れることができた。

そのエネルギーを用いて、人間の自由度を最大限に――実現すること。

そのモデルニテの欲望を「力への意志」と名づけてもよいが、それが最終的には、「人類生存の危機」という暴力的な事態へと究極化することを、そう、半世紀前には、誰もが予感していたのである。

ヒロシマ・ナガサキの全地球化として認識されていたこの「第三次世界大戦」というシナリオは、危うく回避され、ということは深く潜在化された。
 

だが、それから半世紀も経たないうちに、人類は、そのような巨大な戦争による自己破壊とはちがった仕方で、「生存の危機」に瀕するようになったということだ。

この事態にあっては、物質は単にエネルギーに変換されて、無名の、しかし巨大な力をふるうというだけではない。

エネルギーは一元的な「量」だが、そうではなくて、物質はそれぞれの固有な特性において、認識され、分析され、生産され、消費され、世界にばら撒かれることになる。

この200年あまりのあいだに、――そして当然、ここ数十年はそれが指数関数的に増大しているはずだが――人類はいったいどのくらいの物質を新たに創り出したのだろうか。

人類の誰もが多かれ少なかれ、免疫不全(アレルギー)に罹るほどに膨大な量の物質が人工的に生産され続けている。

しかもそれらはすべて、人間の生活を益する目的によって産み出されたものだ。

人類は、もはや道具などではなく、巨大なエネルギーと微小なスケールにおける物質の生産によって、人間にとっての世界そのものを根本的に変革しつつある。
 

だが、この物質レベルからの世界変革は、当然ながら人類の日常生活を恒常的に多大なリスクにさらすことになった。

もはや自然の循環による浄化機能をはるかに超える汚染が世界のあらゆる生物を危機においやっている。

ヒロシマ・ナガサキが巨大なエネルギーがもたらす災厄の名であるとすれば、ミナマタ・チェルノブイリは、そうした眼に見えない、日常的な風景のなかに潜むリスクの名なのである。

モデルニテは、ヒロシマ・ナガサキから、ミナマタ・チェルノブイリへとその技術的支配を「深化」させているといえるだろう。

眼差しに拡がる有明海は変わらぬままの美しい風景であったろう。

海は豊かな魚を届けてくれたであろう。

にもかかわらず、その平和な風景の下で確実に物質が生態系そのものを根本的に危うくしていたのである。

以降、ミナマタは世界の現実である。

われわれはもはや風景の美しさをそれとして語ることが不可能になってしまったのだ。
 

だが、まだミナマタは局地的であると言いうる余地もあったかもしれない。

しかし、ことが水銀ではなく、二酸化炭素であるとすれば、もはやそのような限界つけは無効である。

それは、誰もが毎瞬ごとにはき出している物質が、個人としての人間にはけっしてそれとして「経験」できない、「量」の積算のプロセスを経て、地球の平均気温をわずかに何度か上昇させ、それが温暖化として人間の生存を危機に陥れる。
 

われわれは呼吸する。

息を吐き出す。

その息は二酸化炭素を含んでいる。

地球規模で積算されたその同じ――しかし「同じ」なのか?――二酸化炭素の量の増大が、「桶屋」のようなロジックに従って、「人類の生存そのものが危機に瀕している」という言明に結びつく。

このロジックを、われわれは個人としてのみずからの思考の内在性から引き出すことはできない。

思考は、すぐれて内在性の経験である。

この内在性は、たとえ人間についてのすべてのロジックをそこから引き出せるのだとしても、しかし二酸化炭素の特性を「意味」として引き出すことはできない。

われわれは二酸化炭素の哲学を構築できない。

そんなことを考えるくらいなら、二酸化炭素を減らす排出装置、あるいは吸着する装置をデザインし、植林の政治、循環型社会への提言を実践するべきであることは明らかだ。

思考は無力なのである。
 

だが、にもかかわらず、この危機の切迫はけっして思考を免除しない。

それどころかよりいっそう言いつける、とわたしには思われる。

すなわち、この思考の非力そのものが、思考にその本来性を返すとでも言うべきか。
 

かつて、まさに「もうひとつの世界大戦」の「危機」のもとで、ハイデガーは、こうした思考の非力、非思考を「休耕地」と呼んでいたはずである。

そこでは、ハイデガーは、計算の思考と省察の思考とを対置していた。

この「原子時代」、人間は「思考から逃走」し、計算に溺れ、非思考に陥っている。

だが、この非思考そのものが、いっそう思考の本来的な、しかし新しい態度を言いつけているとかれは言っていたはずだ。
 

言うまでもなく、その態度こそが「放下」(Gelassenheit)である。

それはとりあえず、技術的な対象について言われているのだが、結局は、「時代」について、まさに「存在」の「命運」としての「時代」について言われていることは明らかだ。

すなわち、世界の技術的な支配というこの「時代の支配」は「単に人間的であるにすぎないどのような組織も簒奪することはできない」。

そこから出発して、しかしそれが、人間の「内奥と本来性」において、「われわれにいささかもかかわらない」ことを留保する。

「放下」とは、この「無・関係」のなかに、しかしみずからを「投げ入れる」ということになるだろう。

なぜか。

なぜならば、この「無・関係」のうちにこそ、ある「秘密」が、「秘密の意味」が隠されているからである。

つまり、技術の意味は、人間的なものの限界を超えているのである。

そしてそれ故に、その支配のうちには、その不気味な「無・関係」の脅威を超えて、人間にとっての歴史のもっとも本質的なものが、解き明かされるべく覆蔵されているということになる。

「放下」という言葉が、エックハルトなどの神秘主義の伝統から借りられたものであることは決定的だ。

そこには、どのような古代の宗教も想像することのできなかった、しかしもうひとつの「神のようなもの」(存在)が透視されていたようにすら思われる。

つまり「放下」とは、おそらく究極的には、「人間である」という存在を「放ち捨てる」ようにして、その「無・関係」のなかへと思考する、ということなのである。

こうして「秘密」が意味のもうひとつの究極のあり方としても現われてくる。
 

ハイデガーのこの講演テクストからすでに半世紀が流れた。

世界大戦はあやうく回避されたが、技術の支配はさらに強化され、もはや「戦争(闘争)」というモデルでは表象することのできない「危機」が、技術と資本によってもたらされている。

もはや単なるエネルギーのコントロールが問題なのではなく、物質と情報という、おそらく半世紀前にはまだ明確に前景化されていなかった問題系が、技術のすべての支配の根幹として現われてきている。

そして、その中心にあるのは、おそらくはデザインの思考なのである。
 

デザインとは、言うまでもないが、単に「形」にかかわるものではない。

それは、物質と情報のあいだで、あるいは、計算可能なものと計算不可能なもののあいだで、両者を含みこんだ仕方で調停するような創造的な決定をもたらすことである。

もちろん、あらゆる種類の計算はその不可欠の要素として組み込まれているが、しかし計算そのものは、もはやわれわれの能力に内在する必要はなく、すでに外部の計算装置に委ねられている。

人類の文化はおそらくすでに単なる「計算」は超えており、むしろ計算可能なものとそれ以外のもののあいだの、非線型で、多元的で、その意味では決定不能なものを、にもかかわらず創造的に決定するという段階へと達している。

言い換えれば、デザインはいわば、計算不可能なものへ、つまり出来事へと開かれたものとして思考されるのだ。
 

おそらく、そこには技術というものの本質のひとつが現われているにちがいない。

技術はいまや計算ではなく、デザインの思考となり、それ自体が、両義性を内包しつつ、未来に向かってみずからを投げ出しているのだ。

デザインは、それが未決定の出来事――それがリスクであれ、恵みであれ――に対しての開けを保持しているが故に、未来の、未来への「企投」(プロジェクト)なのである。
 

呆れかえるようなこの楽天性!

しかし、その創造的な実効性だけが、確かに来たるべき、いや、もう来てしまっている「危機」への対処を可能にしてくれるだろう。

そのことは疑いない。

だが、同時に、そのデザインの思考のなかに解消しえないもの、おそらくは未来へと解消しえないなにかが、「無・関係」の残滓のようなものとして残り続けないわけではないだろう。
 

「危機」そのもののうちに、思考が引き受けなければならない、「秘密」のようなものが確かに「ある」のだと、ここでは呟くように言い放っておくだけにとどめたい。


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