Arbre / 哲学の樹

思考のパルティータ 2: 〈歴史の真理〉に向かって (2)   小林康夫

速度と技術的なもの――とりあえず、前回からの引き継ぎのバトンはこれだ。
 

まず速度。

言うまでもないが、モデルニテとはなによりも速度の時代であった。

周知のように、最初は熱力学の時代、蒸気機関の、つまり鉄道と蒸気船の時代である。
 

いや、わたしとしては、ベンヤミンが試みたようなモデルニテについての文化論的な読解をここで全面的にはじめるつもりはないのだが、しかし少なくともその存在論的な意味だけは確認しておかなければならない。

さまざまな言い方があるだろうが、ここではそれを、エネルギーという視点の確立として考えてみる。
 

水と火(熱)から膨大な、無名の、個別化を知らない連続的な量としてのエネルギーが取り出され、使用され、それが現実をラディカルに変革し、人間にとっての新しい現実を構成するようになる――モデルニテとは、こう言ってよければ、水、風、太陽、森、草原等々すべてを含めて「大地」と呼んでおくとして、そのような自然の「大地」の諸力とはもうひとつ別の「基底」が人間の現実を構成するようになる時代である。
 

この新しい「基底」は、しかしながらけっして単に反・自然的なものではない。

それは、その見かけにおいては、「自然対機械」という二項対立的な図式を通して人間世界に暴力的に、つまりそれまでの既存の社会組織を破壊するような仕方で(鉄道がもたらした〈ヒステリー〉のことを思い出してみればいい)侵入してくるのだが、実は、人間による自然の、そして物質の、より深い――ということは、人間的な、つまりは日常的な意味の世界の彼方の深度にあるような――理解に基づいている。

それは古代においては、たとえば神々のものとされた自然の奥深い神秘的な力そのものの人間の技術による解放にほかならない。
 

ここで小さな括弧を挿入しておくなら、言うまでもなく、この圧倒的なエネルギーの解放というモデルニテの「運命」は、戦争――しかも「総力戦」という新しい形態における大戦――において究極的な仕方で呈示された。

すなわち、ヒロシマ・ナガサキである。

これは個人的な感慨の域を出ないが、わたしには、アウシュヴィッツの後に詩を書くことの野蛮と同じように、ヒロシマ・ナガサキの後に哲学することの野蛮! とどうして誰も言わなかったのか、と訝しい思いもある。
 

水も石も――石油、石炭、ウラン、なんということ!――技術的に制御されたシステムにおいて、膨大な量の、つまり人間の尺度を超えたエネルギーという現実態(エネルゲイア!)を生み出す。

人間の尺度を超えている、ということは、同時に、それらを産み出す機関がもはや「道具」などという存在者のカテゴリーには属さないということだ。

「われわれは、配慮的な気遣いのうちで出会われる存在者を道具と名づける」――ハイデガーはそう定義したあとで、ペン、インク、机、ランプ、ハンマー、カンナ、針、時計、照明、屋根つきのプラットフォーム(プラットフォームが言及されて汽車が言及されないことが特徴的だ)等々について語っていた。

これらのそれぞれ個別性を備えた存在者にわれわれは確かに世界内的に「出会う」ことができる。

だが、たとえばわれわれは、いったいどのようにして電気に出会うことができるだろうか。

スイッチを入れて目の前のランプが灯れば、われわれは「電気」に出会ったのだろうか。

その光は、ランプという「道具」の配慮であり、われわれはそれに配慮的に出会うかもしれないが、しかし「電気」には出会うことはない。

「この電気」と指示することは無意味であり、それ故にそれは無名で、顔がない。

実際、わたしが知る限りだが、ランプについて語った詩人――マラルメ、ボンヌフォア、等々――はたくさんいるが、電気について語ったのは、フランス電力会社から依頼されたという文脈のもとで、かろうじてフランシス・ポンジュしかいない。

電気とは果たして存在者なのだろうか。

いま、この瞬間にわたしの眼の前にあるコンピュータとモニターを動かしている電力とは、いったい何なのか。

この名づけられない、特定不能の、しかしエネルゲイア!
 

大地から空に向かって屹立する高層ビルは、現代のわれわれにとっての「住まい」(habitat)の究極的な形態だが、そこに供給される電力を遮断するだけで華やかなシステムのすべてがたちどころに居住不可能な廃墟と化す。

電気というこの純粋なエネルギーは、もはやわれわれの「第二の大地」であるとすら言うこともできるにもかかわらず、いったいそれについての哲学的な思考が書かれたことがあったのかどうか、寡聞にしてわたしは知らない。

いや、ここでは哲学は不可能だと言うべきなのかもしれない。

エネルギーは存在するものではなく、現象する「量」である。

量は、計算され、管理され、交換され、消費されるが、しかしそれをそのものとして思考することは難しい。

量――人間の現実をつくり出し、規定しており、しかももはや個人の「配慮」の限界を圧倒的に超えた量――に対してどのように思考するべきか。

基本的には、現代の哲学は、こうした「個」として平準化された人間の枠をはるかに超出するほどの圧倒的な――すなわち卑俗にして崇高な――量の支配に対して、なんらかの仕方で「人間の意味」を確立する方向へと思考しようとする。

無名の、顔のない、圧倒的な「量」は、まさに世界から「意味」を奪ってしまうのであり、その意味の剥奪、いや、抹消に対して、「意味」を復権し回復する方向へ、人間を「意味」として再発見する方向へ、というわけである。

そしてそれは、一般的には、新たに、というのは旧来の伝統的な社会の絆がすでに解体されているので、なんらかの新たな「共同性」を「意味」として見出すことへと向かっていく。
 

何度でも断っておかなければならないが、ここでは単にいくつかの目印あるいは軸となるような「線」を引くことでラフな素描を試みるだけなので、乱暴さは承知の上でのことだが、モデルニテはこの「意味としての共同性」という課題に対していくつかの回答を用意した。
 

そのひとつは、プロレタリアである。

プロレタリア――この名のもとに、わたしとしてはただ、「資本」というまさに「量の組織化」がもたらす非人間的なエネルギーに対抗する新たな共同性の地平として夢見られていたものを名指しておきたいだけである。

それについてのさまざまなイコノロジーがそのことをはっきりと示しているが、プロレタリアはまずなによりも「手」の主体であった。

「道具」を持ち、「道具」をつかって「労働」し、物を産み出す「手」の共同性こそその根拠であったと思われる。

「機械」のエネルギー世界に対して、それによって破壊された「手」のユートピア。

しかし、この共同性はあくまでも「来たるべきもの」として想像されていたものにほかならない。

なにもないところから、まさに闘争を通じて共同性そのものが産み出されなければならなかったのだが、いくつもの構造内在的な原因によってそれは不発に終わったと言うべきだろう。
 

もうひとつ、「意味としての共同性」が託されたもっとも強力な場は、言うまでもなく、「民族/国家」である。

すなわち、「歴史」を超えるものとしての「起源」の共同性である。

民族はもちろん自明な概念ではなく、モデルニテにおいて、歴史的な切迫に答える仕方で、(再)発明され、(再)構築されたものである(そこにあらゆる種類の儀礼が召喚される)。

すなわち、民族という概念あるいは理念は、それ自体が、再解釈された、回帰する存在論という形で現れるが故に、哲学的な思考は、意識的にしろ無意識的にしろ、つねにそれに巻き込まれ、呑み込まれる危険をはらんでいる。

民族をひとつの根源的な構成要素とする近代国家とある種の存在論哲学とが随伴する歴史的な必然性がそこにはあるのであって、「神が死んだ」時代における、哲学の国家 = 民族的なモメントというものがあると理解するべきなのである。
 

いずれにせよ、このような「意味としての共同性」は、極限的には「過剰な同一性」による暴力と親和し、そのうちに回収されざるをえない。

いまだに現実的には、繰り返され続けていて、いっこうに廃棄されえないこの機構の存在論的な限界に対して、いかにしてそれとは異なる、差異の、あるいは他者の倫理、ないしは「存在を超えるもの」、「存在とは別なもの」を見出すか――それこそが、現代の哲学が引き受けた使命であったと言ってもいいだろうか。
 

いや、ここではその多様な努力を展望することはできないが、たとえば根源そのものに差異や痕跡を要請し、あるいは孤独と友愛という反転的な負の共同性を追求し、あるいは存在を生成へ、ないしは出来事へと転換する、無限という意味の限界解除そのものに究極の「意味」を構想する、さらには直接的な共同性ではなく、意味の「場」の公共性を担保しようとする方向へ――そのようなさまざまな思考の努力が行われ続けているし、いや、ここでわたしが行おうとしていることも、そういった歴史的とでも言うべき無数の努力をかなりパーソナルに、しかも大きく粗く(それが切迫の様態だ)まとめ直しつつ、そこに――一条の滴りとして――合流するということ以外のなにものでもない。
 

その上で、そうした努力の前に拡がる世界光景はどのようなものか?

それは、ほとんど資本の存在論としての、あるいは、こう言ってよければ、「無・意味の共同性」としてのグローバリゼーションである。
 

それはある意味では、ついに、ラディカルなまでにポジティヴな唯物論が完成したということでもある。

戯画的に言うならば、エネルギーという非人間的な「もうひとつの自然」に正確に対応する人間的な存在形態とも言うべき「欲望」のもっとも肯定的な、そして同時に自由な! 形態としての資本が、あらゆる「意味」回復の努力を超えて、世界化したというべきだろうか。

欲望は、まさに人間にとってのエネルギーの等価物であり、その限りにおいて、根源的に人間的な! 量である。

この量が、もはや道具と手と労働をつなぐ「手」の回路を超えて、ということは、個人の実存を超えて、巨大な量的時間組織として出現しているのが、今日のグローバル時代の資本の体制とも言えるだろう。
 

すなわち、世界化した投資としての資本である。

おそらく意味は世界化しない。

意味や意味の総体としての文化の壁を超えて世界化するのは、それそのものがすでに意味へと分節されない、しかし時間の組織そのものでもある量としての資本である。

それは、あくまでも「意味」に収斂することを不可避とする投企と危うく拮抗しつつ、しかしそれを根底において脅かしている。

そこでは「意味」はその意味を失いつつある。

電気に出会うことができないように、電気を眼の前に「立てる」ことができないように、「意味」もまた「立つ」ことができなくなりかかっている。

あるいは、その「立つ」意味(そう、おそらく「意味」とは、根源的にこの「立つ」ことと連関しているのだ)の「下」(電気にとっては、垂直的な方向性そのものがまったく意味を持たないという意味でその「下」)を、高速度で、ということは意味を超えた速度で電気が、熱が、エネルギーが、そして資本が流れつづけている。
 

だが、ここで忘れてはならないのが、こうした量の流動は、無限定に行われるのではなく、あくまでも人間が産み出した技術的なシステムを通じてのみ起きるということである。

炉のなかで燃えあがる薪も確かに技術的なシステムには違いないが、そこではまだ、そのシステムは「手」の回路のうちにある。

しかし、原子力発電所からわたしのコンピュータにまで流れてくる電気のシステムは、もはや高度に複雑なコントロールのもとに置かれた、しかも過去の膨大なシステム・デザインの集積としての技術システムであって、もはや誰もその全体を個人の名において引き受けることはできない。
 

システムは、システム固有の合理性を備えている。

合理性がなければそのシステムは機能しない。

逆に言えば、システムの機能性こそが合理性である。

多くの場合、この合理性は目的によって統御されている。

どんなシステムもそれに対してそれが設計されている固有の目的がある(ように見える)。

目的がシステムの各構成要素を位置づける。

要素の「意味」はそのシステムのマップ上の位置によって規定されるのだが、このような機能的な「意味」は、あくまでもシステム内においてのみ有効なものであって、かならずしも共同性を担保しない。

当然のことだが、共同性はけっしてなんらかのシステムには回収されえないものであるだろう。
 

あえて単純化しよう。

一方には、現実を規定し、動かし、構成する合理性を備えた高度に複合的で、複雑で、シニカルな無名のシステムがある。

この技術的なシステムは、おそらくわれわれの生物、生命としての精妙な無名のシステムに対応するものである。

われわれの存在は、同時に、技術 = 自然的であるようなこの二重のシステム次元の「あいだ」にある。

そのもっとも端的なモデルは、たとえばいわゆる脳死状態、あるいは「植物人間」状態にある存在である。

そこでは、高度に管理された生命維持技術システムと生命とが直接に、ほとんど「あいだ」なく、つながれている。

人工心臓の規則正しいテンポ、循環する輸液のシステム、収縮を繰り返す人工呼吸器――それこそが、まさに「速度」である。

技術のシステムと生命のシステムが接合し、エネルギーが流れ、生命が維持され、だが、そこではたして「意味」はどうなっているのか。
 

言うまでもないが、そのような極限的な状態において、はじめて立ち現われてくるその「人」なるものがある。

それは、人が亡くなったときによりはっきりと現われてくるものだが、それまでのその人が「ともにあった」そのすべてが、ほとんど凝縮した分節化できない「意味」としてくっきりと立ち現われてくる。

その存在自身にとっての「意味」の問題が他者からまったく見えない状態に立ち入ったその「とき」において、まるではじめてであるかのように、他者たちにとってのその存在が「意味」――もはや深い感情によってしか充当できないような――として現われてくる。

共同性としての意味はつねに、そのように回帰するもののなかにこそ求められる。

意味は、最終的には、回帰へ、――あるいは同じことだが――反復へと究極化するのだ。


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