破急風光帖

 

★   日日行行 (124)

2017.12.18

* 師走もなかばすぎ。その慌ただしさのなか訃報が届きました。ちょうどいま、ブログをアップしようとしているこのタイミングで京都の聖アグネス教会で葬儀がはじまる。わたしは列席できないのですが、遠く関東からこうして祈りをささげます。

 先週の土曜、駒場のIHSの安藤先生の演劇の実習から戻ったところで訃報メールを読みました。渡辺公三さん。立命館の副学長、文化人類学者。わたしとは東大の同学年。わたしが生まれてはじめてパリに行ったときに泊めてもらったのが、かれのアパルトマン。アヴニュー・ジャン・ジョレス、いつでもメトロの高架鉄橋が走る窓の外の景色が目に浮かびます。いっしょにルイス・ブニュエルの最後の映画にも出たりして。わたしの「パリの春」。わが人生のもっとも高揚した瞬間であるのはまちがいない。わたしにとっては、公三さんは、「パリ」の扉をあけてくれた恩人なのです。情報が少ないのですが、肝臓がんで亡くなったと知りました。ご自宅で、と。愕然としました。言葉も出ない衝撃。
 今年の夏は、同じ東大同期の岩佐鉄男さんが亡くなっていて、これでわたしが30代のときに、相互に結婚式などにも出て司会をしたりしたフランス系の旧友たちがみんないってしまった。取り残されたような淋しさです。次は自分の番だよなあ、という思いもあるし。闇が身近に迫ってくるのを感じないではいられません。
 公三さんと最後に会ったのは、数年前、那須にある立命館の理事長の別荘でだったはず。いや、それともかれが駒場に来たおりに、キャンパス内のレストランで夕食をしたときだったかしら。いつも元気そうに、公三らしい特徴的なスマイルを浮かべていたのに.........東京/京都と住むところがわかれてしまったこともあって、頻繁に連絡をとるという関係ではなかったのですが。悲しみというよりは、同じ波に襲われているのに、きみのほうが少しだけ早く波にさらわれていくね、という感覚かな。ひとりの人間がこの世で生きていくということのほんとうの有り様を凝視させられます。ありきたりの言葉だけど、深い思いをこめて、冥福を祈ります。

 同じ日に、フランスからは、美術史家のユベール・ダミッシュさんの訃報も届いていました。かれとも、博士論文の審査をいっしょにした関係でしたが、サン・シュルピスのすぐ裏側のお宅にも招かれて、映画監督の奥様ともいっしょに楽しくお話しをしたことを思い出しました。11月にそのあたりを歩いていたときも、ダミッシュ先生どうなさっているかなあ、と鐘楼の塔を見上げていたりもしたのでした。
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 暗い悲しいトピックばかりなので、最後に明るい話しをひとつ。
 先週木曜の夜は、駒場の授業を少し早く切り上げて、またもやオペラシティへ。そのコンサートホールで行われた「難民を助ける会 東日本大震災 復興支援のためのチャリティコンサート」へ。フランスから二人の演奏家を招いての公演だったのですが、オルガン奏者のエスケッシュさんは急病で来日せず、トランペットのエリック・オービエさんが、急遽代役をつとめた(すばらしい!)日本人オルガニスト2名とともに演奏会を行いました。澄んだトランペットの音が胸に突き刺さり、アルビノーニ、バッハ、フォーレ、など名曲を楽しみました。やはりその場、そこで音の出来事が立ち上がっているのが音楽。音と人とが一体となってはじめて音楽。イヤホーンで聞いているのは「音楽みたいなもの」にすぎません。出来事よ、世界は出来事であって、情報ではない。年末の、澱が沈降してくる心を晴れやかに洗ってくれました。「目覚めよ」、と声がしたかな。(退位がきまった美智子皇后もご臨席で、日本戦後文化論を書いているわたしとしては、戦後文化のひとつの「中心」であったフィギュールの現前は、それもまた、出来事でありました)。

 時代は、歴史は動いています。ますます急なスピードで。そのなかでなんとか、自分自身のバランスを崩さないでいたいもの。そのためには、広い意味でのアートの、つまりは人の衝撃が欠かせません。魂の飢えをこそ、と思います。時間はあまり残っていない、いろいろな意味で。


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