破急風光帖

 

★   日日行行 (115)

2017.10.19

* 池尻大橋と渋谷のあいだの田園都市線車内で、ちょっと泣きました。いや、フランスの詩人フィリップ・ジャコテのモランディ論「Le bol du pèlerin』(巡礼者の器)を読んでいて、ほぼ末尾の「われわれが実際みな死すべき存在であるからといって、なぜ絶対に、死こそが生よりもより真実であるでなければならないのか。なぜ光だけが「欺瞞的おとり」であり、暗闇はそうではない、ということになるのだろうか。」という箇所を読んでいてのことでした。

 ひとりではなく、誰かと、質の高いフランス語を読みたい、という老人の願いを聞き入れてくれて、桑田光平さんが駒場でフランス詩を読む会「Vergerの会」をしてくれています。ありがたいこと。1月、4月、5月、7月とやって、この17日に5回目。ジャコテを読むことになって、桑田さんも60年代の詩を読むが、わたしのほうも、ずっと気になっていて、昔は翻訳をするつもりだった、晩年のモランディ論について少しだけ話しをさせてもらいました。そのために昼の電車のなかで読みふけっていたという次第。この言葉の前には、レオパルディの詩とか、ダンテとか、いろいろ伏線があるので、これだけ読んでもわからないでしょうけど、ここにジャコテさんの地上的人間性への究極的な態度が表明されていて、それがわたしの共感を呼ぶ、ということだと思います。
 ジャコテはもう92歳。来月、ひょっとしたらお会いすることができるかもしれません。それが叶うならば、これだけ長い時間をひとつのピュアな態度をまもって生きてきた人に、ひとりの詩の「巡礼者」として、静かに「器」を差し出したいという気持ちです。
 
 今朝、ニューヨークからメールが来て、あなたからもアドヴァイスをいただいたわたしのミシェル・フーコーについての本がとうとう出ましたと感謝の言葉。Marnia Lazregさん。すっかり忘れていたけれど、2014年の8月にUTCPでお会いしています。わたしの当時のブログの168かな、こういうときブログは便利ですね。失われていく記憶を補完してくれる。先日は、同様に、Julian Baggini さんからも、わたしのインタビューを含む著書がもうすぐ出ると連絡がありました。わたしとしては、こういう「つながり」が重要なのだよなあ、とつくづく思いますね。嬉しいです。

 今日も夕方、駒場での授業。わたしにとっては、駒場でのほんとうに最後の授業なので、70年代日本文化論というテーマですが、どうしてもわたし自身の知的なキャリアのこともまた話すことになってしまいます。駒場がこの時代のひとつの「文化の場所」であったことを、駒場で、言葉にしておきたい、そんな気持ちになってきています。「時代」というのは忘れられていくものですけれど、忘却された時代の上に、いまの時代がのっているわけで、そうした時代的階層についてもパースペクティブをもってもらいたいなあ、と。でも、語りながら、あらためて自分が何をしていたのかが見えてくることもあります。そのときは見えなかった時代の地形が、いまだと、よく見えます。なかなかおもしろい地形のなかを自分が歩いてきたということが、いま、わかる。

 


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