破急風光帖

 

★   日日行行 (86)

2017.04.24

* そして昨日の日曜日。慶應義塾大学で行われたジョルジュ・バタイユ生誕120年記念国際シンポジウムの最後の講演、ジャン=リュック・ナンシーの「心からバタイユを」を聴きに行きました。じつは、ナンシーさんは体調不良ということで、パートナーのエレーヌさんの代読。そのことはあらかじめ知らされてわかっていましたが、他の多くの人と同じく、わたしもその「不在の現存」に耳を傾けるためにでかけました。

 2017年にUTCPでかれを迎え、かれの無・無神論の講演にわたしはわたしなりに佛教についての問いかけの短いテクストを対置したことを思い出しながら、10年後に、そのときのかれの約束通りに日本に来てくれたことを喜んでいました。ナンシーさんがわたしがミケルと京都で対談しているときに京都滞在の予定ときいて、ミケルはわたしのと同様にナンシーさんのジャヴェル水によるポートレートも描いている関係だし(ふたつともウィーンの展覧会で展示されていましたね)、ふたりで来てくれるかと待っていたのですが、そのときから体調不良で京都には来られなかったのだとか。結局、今回は、かれに直接、ご挨拶はできませんでした。
 かれの講演テクストは、バタイユについて語っているというよりも、バタイユを通して、みずからの「心=心臓」についても語っている「純な心」のディククールで、会場のすべての人と同様、わたしの「心」も貫かれました。「心」というのは、「貫かれるもの」なんですね。貫かれて、「穴」があき、その開かれを通して、遠くに、限界なきilimité 遠くの空に星がひとつ、特異性の星がひとつ昇り、輝く、みたいな。
 前夜、深く語り合ったボイヤン・マンチェフももちろん聴きにきていて、その後、二人とも、発表者たちの懇親会にもお邪魔させてもらいました。シンポジウム全体をきいていたわけではないのに申し訳なかったのですが、エレーヌさんにも親しいボイヤンをお連れしたという言い訳で、わたしも参加させてもらいました。その後、心満ち足りて、同時に、心貫かれて、三田の丘からボイヤンと二人で静かな日曜の夜の街を赤羽橋のほうに下っていきました。心よ、心、われわれの決意はそこに満ちて来る「潮」の揺れ動く月光の照り返しをじっと見つめることにこそある。こうして春の激しい一週末が没していきました。


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