破急風光帖

 

☆ 夏のnota bene(終)

2016.08.31

* 「夜、とはいえ、それはかならずしも暗さなのではない。それはいわば昼を生み出すものとしての夜、昼の明るさが生まれてくるために必要なもの。それなしには昼が存在しえないある根源的で、宇宙的な力なのだ。おそらくは大地に生きる者だけが知っているある守護的な力、しかし、ひとたび大地を忘れればーーそしてそのときだけーー暗さとなり、おびやかすものとなる・・・」

 とこのあとに、当然ながらアンドレ・ブルトンの『秘法17番』が引用されているのだが、書いているのは宮川淳さん、『鏡・空間・イマージュ』におさめられているホアン・ミロ論「夜について」の冒頭。これも、今朝、この本の出版年を確認するために書棚から取り出してみたら、ちょうど「夜について」のところが開いたという偶然、またもや。で、夏の最後の日、nota beneの最終回にはふさわしいと引用した。そう、大地という視点は、あまりわたしの思考のなかにはなかったなあ、と少し反省。「森」というのがそれであったのだけど。わたしの頭のなかでは、ミロよりはエルンストの「森」のイメージがずっと流れていた。
 宮川さんのこの本が、わたしの出発点であることは、すでに何度も語ってきた。まったく覚えていなかったが、そこには「夜について」があったんだ、と。わたしの「夜」の歴史は深い。このテクストは、ジャック・デュパンの詩句でしめくくられている。詩集『サカード』から、ということらしいが、そこに「わたしはふれる お前の涙に 夜の草に・・・/死すべき喜悦、それはお前か」とあって、最後は、「おお、眼をもたぬわが愛するものよ」である。
 デュパンのこの「甘さ」はわたしのものではないのだが、だが、わたしもまた、ふれる あなたの布に あなたの裸身を覆い包む闇の衣に 夜の森の向こうに流れる星 おお わたしが愛しそこなったものたちよ わたしの手のなかでくずれていく粘土のかたまりのような〈自由〉 夜はいつでもMA、 魔術的である。
 (一月という限定で、nota beneを書いてみた。そうやってあえて魂の内側を少し晒してみせたつもり。9月の旅のなかでもし「秋」に、その「光」に出会えたら、Billets d'automne (秋の紙片)を書き出すかもしれない。今朝の光には、すでに透明感が感じられる。突き刺さる切っ先の鋭さはまだないけどね。中庭では、もう薪が落ちる音がしているのかどうか。耳を澄ませてみるが、いまは、pas encore. )


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