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報告 「世俗化・宗教・国家」セッション 8

2008.07.12 羽田正, 世俗化・宗教・国家

 7月7日、「共生のための国際哲学特別研究Ⅰ」第八回セミナーが開かれた。

 前期の演習は今回で最後となる。この日は予備日として空けられていたのであるが、当演習を続けて行くうちに、その重要性が明らかとなった人類学者タラル・アサドの著作を再び取り上げることとなった。6月9日に議論した『宗教の系譜』の姉妹編である『世俗の形成』(中村圭志訳, みすず書房, 2006; Formations of the Secular: Christianity, Islam, Modernity. Stanford, 2003の全訳)について議論を行なった。報告担当者は児島創、千葉昌子、上野雅由樹(いずれも総合文化研究科;発表順)であった。

 認識論上のカテゴリーとしての「世俗」と政治教義としての「世俗主義」とはどのような関係にあるのか?それらは、人類学の研究対象となりうるのか?世俗主義についての人類学があるとすれば、それはどのようなものか?本書はこれらの問いに対する予備的考察の試みであると、冒頭においてアサドは語る。本書は7章構成で、さらに大きく分ければ3つに分割することが出来る。アサドは世俗を把握するにあたってまず、1・2・3章において世俗そのものを探求し、そうしたのちに4・5・6章で世俗主義の諸相について論じる。さらに、最後の7章において植民地時代のエジプトを具体例として世俗化の諸相に光を当てる。
 発表者たちは本セミナーの趣旨を考慮し、上記の構成を若干組み替え、世俗主義の人類学の在り方についての1章、世俗概念のヨーロッパ的な背景を明らかにする2・3・4章、イスラームについての考察が主となる5・6・7章とに本書を分割、それぞれの要約を行ない、論点を明確にした。
 
その後に出席者による討論が行なわれた。まず、「近代」を視座の中心に据えるアサドは、結局のところ近代に生じたあらゆる事象を世俗主義に帰しており、それには無理が多少あるのではないかという指摘が為され、アサドの意図をめぐって議論が行なわれた。様々な意見が交わされたが、そうしたなかで、アサドが前作で「宗教」をそうしたように、本書において「世俗」に纏わる、自明とされてきた言説を巧みに解体し、その西洋性・近代性を暴く手法が再確認された。それを踏まえた上での羽田教授からの問いかけは以下のようなものだった。「様々な概念や、学問体系が有する『近代性』が明らかにされ、解体されていく中で、我々は―例えば歴史学のような―学問を如何に進めて行くべきなのか」。これに対しては、考察にはある程度の土台が必要であり、それが西洋的な産物であり、特定のものにしか妥当性が無いにせよ、それを頼りに考察を進めて行くべきだという意見や、既存のものを巧く相対化していくことで乗り越えることが出来るという意見、さらには、乗り越えることを考える前に、既存の学問体系の持つ背景に対する認識をさらに深めるべきであり、そうした後に解決策が見えてくるのではないかという意見などが出された。
こうしたうえで議論は、西洋的な基盤を持たぬ我々が、「世俗」を考察することの可能性の模索へと展開していった。そもそも今の日本社会は世俗的なのか?日本は近代化の過程で、他の地域において語られるような西洋「押し付け」がさほど無かったように思われる。これには何か「からくり」があるのではないか?以上のように論点が炙り出されるのかで、来期にすべきことも見えてきた。今期に扱った研究は、殆どがヨーロッパやイスラームに関わるものであった。従って、アジアの事例をより検討して行くことが必要なのではないかというものである。日本や宗教復興の活発さが語られる中国、仏教国でありながら近代化に成功したタイなどが考察対象として挙げられた。今後の見通しについて話されたところで時間いっぱい。明確にされた課題は、その解決を来期に委ねるところとなった。

(文責:諫早庸一)

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