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【報告】セミナー「世俗化・宗教・国家」セッション1

2008.04.30 羽田正, 世俗化・宗教・国家

4月28日、「共生のための国際哲学特別研究I」第一回セミナーが開かれた。

本セミナーは大学院総合文化研究科地域文化研究専攻の授業科目である「通文化研究基礎論II」との共通科目であり、中期教育プログラム第5部門「世俗化・宗教・国家」における議論の基礎作りを目的として開講された。

「世俗化・宗教・国家」に関連する用語は、世俗化secularization, laïcité、 宗教・信仰religion, spirituality、国家・国state, nation, countryなど日本語においても外国語においても複数存在する。この三者の関係についての議論が個別的なものとなることなく一点に集約していくためにも、これらの概念を整理し、共通言語として明確に定義づけすることは必須である。そのための作業として本セミナーにおいては複数の地域にまたがる宗教に関係する文献(主に日本語)を網羅的に読み込み、議論の土台を作ることを目的とした。

実質的な文献講読初回となった今日は、『岩波講座 宗教 1 宗教とは何か』(岩波書店、2003年)より足羽與志子「モダニティと「宗教」の創出」、『岩波講座 宗教 2宗教への視座』(岩波書店、2004年)より嶋田義仁「儀礼とエートス-「世俗主義」の再考から」の二点の論文が取り上げられ、報告担当者による報告と出席者による議論が行なわれた。

足羽論文(報告担当者:飯田えま、地域文化研究M1)は中国における近代化と宗教のあり方を19世紀末~20世紀初頭、現代の二つの時期に焦点を当てて論じた。著者は宗教空間という言葉を「宗教に関する実践的活動のネットワークの広がりと活動内容、国家が支配する制度や法律における宗教の配置空間、宗教のイデオロギーとコスモロジカルな想像力が押し広げ包摂する空間、そのほか、経済や教育から自然保護まで、宗教が主体的に関連していく領域の、物理的、制度的、意味的総合空間」と定義した。その上で、「公益性」と「信仰の自由」の二者が両立し得ないというモダニティ原則の矛盾において中国の仏教を例として取り上げ、仏教が国家の管理下に入ることを通じて宗教空間の拡張、経済的価値の確立を達成していく過程を検証し、「愛国」と「愛教」の二者択一ではない国家と宗教のあり方を論じた。こうした著者の議論に対し、出席者からは仏教の「衰退」「復興」とは何を基準に定義づけられるのか、そして南普陀寺という事例を中国の仏教、と一般化して論じることは可能なのか、また仏教以外の宗教(儒家、媽姐信仰、イスラーム教)と国家の関係についての疑問が出された。また、この中国政府による宗教管理こそlaïcitéの一例であり、laïcitéはいわゆる「政教分離」を意味するのではなく、国家による宗教管理を意味すると考えると理解しやすいという指摘が羽田先生によりなされた。

嶋田論文(報告担当者:後藤いずみ、地域文化研究M1)は世俗主義を「宗教的権威と価値の否定」と定義した上でハンチントンの『文明の衝突』を引用し、いわゆる「文明の対立」とはキリスト教徒とイスラームの対立ではなく、西洋近代文明の世俗主義的価値と、宗教的なイスラーム文明の対立であるとした。その上で、西洋近代の世俗主義の背後には、内面的な信仰の重要性を説くプロテスタンティズム的な思想が存在し、儀礼中心主義のカトリックの教義及び教会制度・聖職制度との対立に至ったのではないかと問題提起した。著者の議論は近代思想史における儀礼の否定と文字文化、人間存在の身体性と儀礼の関係に及ぶ意欲的なものであり、世俗主義概念の分析に対して新たな視座を提供するものであったが、著者自身の研究領域である西アフリカの無文字文化研究から得られた知見が議論への示唆に富んでいる一方、西洋近代思想、イスラーム教の宗教儀礼などに関しては議論の前提となる基本理念についての理解不足が見られた。出席者からはデカルト、ホッブズ、ロックらの思想についての著者の見解に対して異論が出るなど、本論の議論以前の段階について批判が寄せられた。また、著者による「世俗主義」の用語の定義に対しても否定的な意見が出るなど、「世俗化・宗教・国家」の議論における共通言語の定義づけにつながる問題提起がなされた。

報告者:太田啓子

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