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【報告】「イメージの作法」第4回 「イメージは踊る、イメージを踊る」

2008.02.01 └イメージの作法, 平倉圭

1月30日(水)、研究会「イメージの作法」第4回が行われた。発表者としてお招きしたのは、ディディ=ユベルマン『残存するイメージ――アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』(人文書院、2005)の訳者であり、舞台芸術にもくわしい、竹内孝宏氏(東京大学)。

発表タイトルは、「イメージは踊る、イメージを踊る―『残存するイメージ』から『孤独のダンサー』へ」。フランスの美術史家・思想家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの二著作を通して、「イメージ」と「舞踊」の問題を掘り下げる試みだ。

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2002年に出版されたディディ=ユベルマンの大著、『残存するイメージ』は、狂気の淵から未聞の「文化科学」を立ち上げようとした美術史家、アビ・ヴァールブルクをめぐって書かれた理論書である。(ヴァールブルクの錯乱的な思考については、UTCP事業推進担当者・田中純氏による『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』(青土社、2001)にもくわしい。) 一方、『孤独のダンサー(Le Danseur des solitudes)』(Minuit, 2006)は、超絶技巧によってフラメンコをベケット化する(?)ダンサー、イスラエル・ガルヴァン(Israel Galván)をめぐる書物だ。

ディディ=ユベルマンはガルヴァンのダンスを論ずるにあたって、スペインの思想家ホセ・ベルガミン(José Bergamín)の「闘牛」論、La solitude sonore du toreoを参照している。なぜダンスを語るのに「闘牛」なのか?ここには二著作に共通する、「静止」した「舞踊」という問題がある。

竹内氏の整理によると、闘牛は20世紀に大きな変化を経験した。第一に、血があまり流されなくなったこと。もう一つは、ファン・ベルモンテ(Juan Belmonte)に代表される「ほとんど動かない」ように見える闘牛士が登場したこと。(アーネスト・ヘミングウェイの言葉によれば、そのとき闘牛は「ブランクーシの彫刻」のようになった。)そして「動かない」闘牛を極限まで推し進めたのが、わずか数年しか活動しなかったらしい伝説の闘牛士、ドン・タンクレード(Don Tancredo)だ。

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ドン・タンクレードのスタイルは次のようなものだ。全身白ずくめで、白い「台座」の上に立つ。そして突進してくる牛を、ただ「静止」して耐える。あやまって突き飛ばされたら、逃げる。その喜劇的で、たぶん無気味でもあるスタイルは、国民的人気を獲得した。

ディディ=ユベルマンは、このドン・タンクレードの姿を、踊るイスラエル・ガルヴァンの姿と重ねてみせる。ガルヴァンの驚異的なダンスはインターネットで検索すれば動画で見ることができるが、その身体にあるのは、あざやかなリズムを高速で生み出しながら、なぜかつねに、「静止」しているように見えるという印象だ。

「空中に止まったまま飛ぶ鳥」、あるいは「踊られる葛藤の芸術」。ディディ=ユベルマンはガルヴァンの身体をそのように形容する。その言葉は、アビ・ヴァールブルクが見出した「情念定型」のイメージにつながっていくだろう。「情念定型」とは、西洋の文化史のなかにくりかえし現れる、激しい情動によって歪む身体の姿を表す定型である。それはヒステリー発作を起こした身体のように、矛盾する複数の情動に引き裂かれて「静止」している。それは「静止」した「舞踊」である。同じように、ガルヴァンもまた、激しい運動をはらみながら空中で「静止」するのだ。

竹内氏は、フランスにおける、闘牛についての他の思想的言説と比較しながら、ディディ=ユベルマンの闘牛‐ダンス論が、「人間的秩序」と、その裂け目から現れる「リアル」といったような凡庸な構図に陥っていない点で一定の評価を与える。しかしそこには、『残存するイメージ』で構築された思考をそのままガルヴァンの身体に「あてはめて」いるようにも見えるところがあり、それは本当に、踊る身体の具体性に――「マテリアル」に――触れえているのだろうか、と竹内氏は問う。

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踊る身体の「マテリアル」とは何か。
ダンスは生で見なければ絶対に論ずることはできない――だから、自分はガルヴァンを語る資格はない――と竹内氏はくりかえし強調する。それでも映像から見てとれることとして、竹内氏が口にしたのは次のような鋭い観察だ: ガルヴァンの身体は上半身と下半身で分裂している。下半身はきわめて安定した軸が中心にあるのに、上半身の軸はからだの外に浮遊するように見え、手首の動きを通して、空間が次々とつくりだされていくように見える。それは『シネマ2』におけるジル・ドゥルーズの言葉を借りて言えば、上半身がフレッド・アステア、下半身がジーン・ケリーという状態である……

踊る身体の「マテリアル」とは、おそらくこのような具体的観察を積み重ねることからはじめて語りうるものなのだろう。そして、その観察から見えてくる身体はたぶん、ディディ=ユベルマンが見出したものとは異なっている。

私自身のコメントを簡単に記しておこう。つねに弁証法的葛藤をモデルにしてイメージを思考するディディ=ユベルマンにとって、イメージは、極限においては、葛藤に引き裂かれて無限の運動を孕んだまま「静止」する。「ヒステリー」の身体は、その典型である。だが、ガルヴァンのダンスは、引き裂かれない。矛盾に突入しても「フリーズ」しない。

動きながら静止していること。そして同じ身体のなかにアステアとケリーを同居させること。ガルヴァンはその「分裂」を、論理的矛盾のほうに接続してみずからを引き裂いてしまうのではなく、自己差異化する運動のほうに接続することによって、たぐいまれな「リズム」を発生させている。ガルヴァンの「静止」とは、見る者の知的‐知覚的限界が、そのあまりに複雑で滑らかなリズム発生機構の一部をつかまえた印象にすぎない(すべてのノイズを吸収して恐ろしく「静止」しているのはたぶん、腰である)。

台座の上で立って耐えるドン・タンクレードの身体と、ステージの上で止まるように舞うガルヴァンの身体は、端的に異なる機構によって「静止」している。潜在的な複数の運動に引き裂かれて静止していることと、現勢化された高速運動のなかで静止していることは、当然ながら、異なる身体の出来事である。現在、ダンスの哲学がありうるとしたら、この異なり方を、マテリアルに分析することを通してでしかないだろう。

(文責:平倉圭)

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