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Title:

UTCPシンポジウム「漱石『文学論』を世界にひらく」

終了しました
Date:
2011年12月22日(木)10:00-17:30
Place:
東京大学駒場キャンパス21KOMCEEレクチャーホール[地図

プログラム

10:00 受付

10:15 挨拶

10:30-12:00

野網摩利子(東京大学):「情緒」による文学生成力

Joseph A. Murphy(Univ. of Florida):漱石『文学論』における第四ならびに第二の可能性について

13:00-14:30

Atsuko Ueda(Princeton University):抑圧された〈文学〉──『文学論』における〈文学史〉と〈美辞学〉をめぐって

齋藤希史(東京大学):「科」学としての文学研究

15:00-16:30

Michael K. Bourdaghs(Univ. of Chicago):夏目漱石と「世界文学」という問題──英語圏から『文学論』を読み直す

小森陽一(東京大学):「原子論」時代の文学

16:40-17:30 総合討論


発表要旨

野網 摩利子(東京大学): 「情緒」による文学生成力

 漱石『文学論』によれば、「情緒」とは「文学の主要成分」である。読者に求められているのは、小説に盛り込まれた「情緒」を読書時に「復起」させられる「性質」だという。小説はどのようにその「情緒」を巻き起こすしくみを活用するのか。『彼岸過迄』を例に考察する。
 『彼岸過迄』で登場人物「須永」」は、「雨の降る日」の話を聴いたことをきっかけに、「短篇」が「相合」されたこの小説中に「情緒」をめぐらす。そのことで彼は多くの「印象」や「観念」を獲得する。読者は「短篇」同士を突きあわせ、登場人物の行き着く心身をはじき出せる。
 逆から言えば、登場人物の「情緒」は、それを追いかけて現出する読者の「情緒」によって表現することができる。


Joseph A. Murphy(フロリダ大学):漱石『文学論』における第四ならびに第二の可能性について

 夏目漱石の『文学論』のなかで一番奇妙な感を与えるのは、一見公式のような(F + f) という表現である。しかしそれは、しっかりとW. James 流の心理学に基づいている概念であり、その漱石の理論の可能性はやっと、百年たった今こそ――20世紀を支配した行動主義が自らの限界を露呈している今こそ――読みとれるのではないかと思われる。
 500ページを超す大作の中で一番可能性が充ちているのはその冒頭、意識の流れと、(F + f) の公式を紹介する部分である。本稿では、『ロンドン塔』と『文学論』との関係を読むことによって、まず漱石の実践的な問題意識を確認したい。そうすることによって、1907年の文学論が、実はチョムスキーの有名な1957年のWatson流の行動主義の決定的な否定と似た、内在的な構造を有していることを明確にし、「文学論」をその価値を問い直す契機を持つテクストとして 再検討したい。
 さらに『文学論』の科学的な価値が、その内在的な構造と外在的な構造との割合の読み直しにあるとはいっても、漱石にとって、文学の可能性は『文学論』にはっきり指摘されてない (F + f) の第四の可能性にあるのではないかということも含めて議論していきたい。


Atsuko Ueda(プリンストン大学):抑圧された文学―『文学論』における<文学史>と<美辞学>をめぐって

 本論は、『文学論』において「行李の底の収めた」とされる「文学書」を検討し、『文学論』が発表された明治期の<文学>の領域との関わりを検証する試みである。『文学論』が提示する「普遍」の概念を浮き彫りにし、当時の文学史や美辞学との関係においてとらえ直すことによって、『文学論』を明治期の文学の成立過程の中に位置づけるとともに、普遍/特殊にといった 世界観によって支配されていたナショナルな文学/言語の誕生に対する批評性を浮かび上がらせるのが本論の目的である。
 このように『文学論』を位置づける試みは、未だ英語圏を支配するarea studiesの構造を問う契機を与えてくれるように思われる。日本では国民作家である漱石だが、英語圏ではマイナー文学である。この構造は普遍/特殊という世界観を内包し、かつ強化するものである。『文学論』の根底にある「根本的に文学とは如何なるものぞ」という問いを「世界にひらく」ことによって、今一度その有効性を問い直してみたい。


齋藤 希史(東京大学):「科」学としての文学研究

 『文心雕龍』を大きな例外として、前近代の漢字圏における文学批評(詩論・文論)は、原理よりも分類に主眼を置く傾向が強かった。明治期の作文書や文範書もその例にもれず、分類基準が継承されることも少なくない。また、「文以載道」以来の文学観念もまた、「道」=儒教道徳が国民道徳や国民精神に装いを変えることはあっても、色濃く残っていたことは否定すべくもない。
 漱石『文学論』は英文学研究という立場から成り立つものであり、当然ながらこうした伝統に依拠することはない。しかし、文学テクストの用例としては漢詩文も用いられ、伝統的な批評言説もまま踏襲される。読者への馴染みと同時に、東西を包摂する普遍的な文学論を企図してではあるが、そうなると「道」と「類」の批評に引き寄せられる危険も生じるはずであり、事実、日本の国民文学史(論)はおおむねその弊を免れない。
 『文学論』は、こうした危険を「科」学(専門と組織の学)の手法において乗り越えようとする。「道徳」を「道徳的f」とすることでその超越性を奪い、「類」を F+f の定式によって階層化する。さらに、伝統史観では重要な概念である「勢」も「時代的F」として包摂される。『文学論』において、科学は文学と対比されるものであると同時に、手法として依拠されるものでもあり、その二重性こそが、『文学論』の基盤となっているのである。以上の観点から、歴史も科学も伝統も包摂する普遍の学としての文学への志向をもつテクストとして『文学論』が提出されていることを明らかにし、その可能性を示したい。


Michael K. Bourdaghs(シカゴ大学):夏目漱石と「世界文学」という問題―英語圏から『文学論』を読み直す

 本発表は現代英語圏の読者や学者にとっての『文学論』の意義を追及するものである。オリエンタリズムや文化帝国主義の批判を無視できない現在において、二十世紀はじめに漱石が普遍的で科学的な文学理論を探ったことをどう評価すべきであろうか。特に近年「世界文学」という問題を取り扱う新しい理論が溢れていることを視野に入れ、漱石を西洋の「文学」概念を再定義しようとしたアジアの理論家としてだけではなく、大日本帝国からの理論家としてもどう受け止めるべきかを分析する。
 具体的には、本発表はフランコ・ モレッティやパスカル・カザノヴァの最近現れた世界文学史論・世界文学理論、そしてラビーンドラナート・タゴールのノーベル文学賞受賞(1913年)にかかわる当時の言説と『文学論』を比較する。これらの文学理論と漱石の批評との類似点と相違点を分析した上で、英語圏から見る「世界文学」の概念において漱石の文学理論をどう位置づけるべきかという提案を試みる。


小森 陽一(東京大学):「原子論」時代の文学   

 『文学論』の第三篇において夏目漱石は、「文学的内容の特質」を明らかにするために、まず「文学的Fと科学的F」を比較したうえで、「文芸上の真と科学上の真」の違いを明らかにしている。
 対象に対する「科学者」の態度は徹底して「破壊的」であると漱石はとらえている。すなわち「自然界」に「完全形」で存在しているものは、「細に切り離ち」、「原素に還し」「原子に分つ」という、原子論時代の志向に科学者は貫かれている。
 それに対し「文学者」は、「全局の活動」を明らかにするために「解剖」するのである。すなわち「解剖を方便として綜合を目的とす」るのである。
 したがって「文学者」が重視するのは「科学上の真」ではなく、「文芸上の真」であり、科学的合理性に反したとしても、「生命を有」するような「感情」と「感覚」を喚起するような表現を実現するべきなのである。
 こうした漱石の科学観と文学観について報告する。


使用言語:日本語
入場無料・事前登録不要

主催:東京大学グローバルCOE共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)中期教育プログラム「近代東アジアのエクリチュールと思考」

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