Events / イベント

« 前へ | 次へ »
Title:

【関連イベント】イメージ(論)の臨界[6]: 表象可能性へ配慮

終了しました
Date:
2010年3月6日(土)13:00-
Place:
京都大学大学院人間・環境学研究科棟 地階B23室 [地図

主催:科学研究費萌芽研究「美術史の脱構築と再構築」(代表:岡田温司)
問い合わせ:京都大学 岡田研究室 075-753-6546
事前申込:不要 お気軽にご来聴ください。

司会:森田 團(UTCP)

パネリストおよび発表タイトルと要旨
*発表順もこの通りです。持ち時間はひとり30分程度を予定しております。

池野絢子(京都大学大学院・博士後期課程)
「眼差しの期待のもとに」――ジュリオ・パオリーニの初期作品における「作者」について

戦後イタリアの芸術家ジュリオ・パオリーニ(1940-)は、1960年代のはじめ、イメージを排除する反イリュージョニズムの作品から出発しているが、67年以降、彼の作品には写真複製された過去の巨匠たちの絵画が登場し始める。このようなイメージの回帰は、とはいえ、単なるコピーや引用といったものではない。むしろ問題化されているのは、作品の作者である「パオリーニ」と、過去に制作された絵画の作者たちという、複数の作者たちによるイメージの重なりあいである。ロラン・バルトの名高い「作者の死」(1968)と相前後して発表されたパオリーニの作品にあって、しかしながら「作者」は、完全に葬り去られたとも、単純に回帰したとも言いがたいように思われる。本発表では、パオリーニの作品の分析を通じて、芸術作品における「作者」の所在を再考する端緒を探りたい。

堤裕策(東京大学大学院・博士後期課程)
「生きられた演劇」――ミシェル・レリスの憑依論における経験の表象可能性

1931年から1933年にかけてアフリカを横断したダカール・ジブチ調査団に帯同し、エチオピアにおいて憑依儀礼を調査したミシェル・レリスは、その20年あまり後、『エチオピアのゴンダル人における憑依とその演劇的諸相』(1957年)を発表した。この論考においてレリスは、呪術研究における機能主義的あるいは社会学的伝統を踏襲することなく、また精神病理学的解釈とも距離を置きながら、憑依の演劇論的解釈を試みた。本発表では、この演劇論的観点が持つ理論的射程をフランス民族学の歴史的観点から明らかにすることを念頭に、この憑依論において憑依が「生きられた演劇」として提示される過程を分析する。そこで、憑依との比較のために着想された「演劇」概念をアンドレ・シェフネル、モーリス・レーナールト、アルフレッド・メトローらの演劇と呪術の関係を論じた同時代の論考を参照しつつ再検討する。そして、この概念がはらんでいるであろう経験の表象可能性の問題を提示することを目指したい。

蘆田裕史(京都大学大学院・日本学術振興会特別研究員PD)
ゆらぐイメージ――シュルレアリスムにおける衣服=身体の表象

本発表は、アンドレ・ブルトンの『狂気の愛』を手がかりに、シュルレアリスムの絵画や写真における衣服と身体の関係を論じるものである。シュルレアリストたちの作品においては、衣服と身体が溶け合い、同一化するようなものとして描かれることが少なくない。こうした特徴的な衣服=身体の表象を考察するにあたって参照されるべきは、アンドレ・ブルトンの『狂気の愛』における、蚤の市で発見されたスプーンについての分析である。ブルトンはこのスプーンのなかに靴のイメージを見出すのだが、この両者のあいだのイメージのゆらぎは、境界が曖昧にされた衣服=身体の関係と軌を一にしていると言えるだろう。この衣服=身体の表象にはさらに、同書で展開された「痙攣的な美」の概念が体現されていることを明らか
にしたい。

西山達也(慶応義塾大学/早稲田大学・非常勤講師)
porosとpolisの形象――ヘルダーリンとハイデガーによる『アンティゴネー』翻訳

ソポクレスの悲劇『アンティゴネー』における名高い合唱歌「不気味なものは数多くあるが…」をめぐって、詩人ヘルダーリンが精神錯乱(Umnachtung)の閾において遂行した翻訳と、その存在論的改訂版ともいうべきハイデガーによる翻訳(『形而上学入門』および『イスター講義』)を改めて精査する。本発表で注目するのは、この合唱歌において用いられるporos(移行・通過)とpolis(ポリス・場)の形象、とりわけ、合唱歌末尾の「ヒュプシポリス-アポリス〔ポリスを超える・ポリスを失う〕」(370行)という撞着語法、いわば反転の形象が、ヘルダーリンおよびハイデガーの翻訳においてどのような機能を果たしているかである。ソポクレス、ヘルダーリン、ハイデガーのテクストをミクロに読み込むことで、悲劇における形象の現出の可能性、およびその美に関する問いの端緒に触れることができればと思う。

松谷容作(神戸大学大学院・博士後期課程)
身体(運動)の規定――初期映画における映像と身体の関係

ポール・ヴィリリオは速度と人々の知覚の関係と変容について議論する際、次のような言及をする。
「動力革命が始まり、イメージが動き始めると、こういった静物システムは崩壊していった。同時に、視像の静止や、明晰な思考の静止状態から生まれる「広い意味での存在の場」も崩壊した」
(ポール・ヴィリリオ『情報エネルギー化社会』、土屋進訳、新評論、p. 104。)
ヴィリリオに従うなら、運動を不動化することによって、見えるという幻覚を与えるシステム、見える、過ぎ去った時間を生じさせるシステムは、動力モーターの出現によって崩壊する。またその出現は、人々の知覚や思考にも大きな変化を与えることになる。では、動力モーターを通じ運動を提示する映画は、人々に対してどのような影響を与えたのか。以上の問題意識で、本発表は、映画誕生期の映像と身体の関係を映写スピードを軸として考察する。

三重野清顕(埼玉医科大学・非常勤講師)
ヘーゲルにおける否定性と形象化の問題

若きヘーゲルがその最初の公刊論文において語るように、哲学の課題とは「絶対者を意識に対して構成すること」にほかならない。それ自身けっして意識の対象とはなりえないはずのものが、いかにして意識における制限された対象として知られうるのかという問題は、ヘーゲルの思考の諸々の段階において、さまざまな形を与えられつつ回帰してくるテーマである。本発表においては、ヘーゲルにおける「否定的なもの」を巡る思考をたどることによって、それが「形象化不可能なものの形象化」という課題をどのように遂行しようとするものなのかという問題に一定の見通しを与えることを目標とする。


« 前へ  |  次へ »
  • HOME>
    • Events>
      • 【関連イベント】イメージ(論)の臨界[6]: 表象可能性へ配慮
↑ページの先頭へ