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【報告】ロサンゼルス哲学ワークショップ

2017.02.28

ロサンゼルスのロヨラ・メリーランド大学(LMU)のJason Baehr教授をオーガナイザーとして、同大学で2017年2月18日にWorkshop in the Philosophy of Mindが開催された。このワークショップでは、UTCPから信原幸弘、勝亦佑磨、千葉将希の3名が研究発表を行い、それぞれの発表について活発な議論が行われた。発表のテーマはクリティカル・シンキングにおける情動の役割、志向性の自然化、道徳的アリーフに関する進化論的暴露論法であり、広い意味で心の哲学に属する主題であった。このような広範なテーマであるにもかかわらず、Baehr教授からは、どの発表についても興味深いコメントと質問が寄せられ、また他の聴衆からも重要なコメントと質問がなされた。以下、それぞれの発表の様子を発表者自身により簡単にお伝えする。

信原幸弘“Emotional Turn in Critical Thinking”

批判的思考は情動を排して、理性にのみ基づいて行われる思考だと考えられがちだが、このような理性主義的な見方には深刻な問題がある。たしかに情動は主たる認知バイアスの一つであり、しばしば思考を歪めるが、情動がなければ、理性的な良い思考ができるかと言えば、けっしてそうではない。そのことを印象的に示すのがVMPFC患者(脳の前頭前野腹側部を損傷した患者)である。彼らは知的な能力に障害がないにもかかわらず、情動が鈍化しているために、意思決定がうまく行えない。つぎの来院日を決定するというような簡単なことでさえ、いろいろと考えあぐねるだけで、いっこうに決定できない。彼らには意思決定にとって重要なことが情動的に際立ってこないため、多くの重要でないことまでいちいち考えてしまうのである。このようなハムレット状態を脱するには、課題にとって重要なことを瞬時に情動的に把握する能力が不可欠である。

批判的思考には情動が不可欠であるが、情動なら何でもよいというわけではなく、必要となるのは適切な情動である。不適切な情動は思考を歪めてしまう。適切な情動はものごとの重要性を正しく反映することで、批判的思考を可能にする。しかし、適切な情動を形成する能力を身につけることは容易ではない。それは理性的な反省を行いつつ困難な課題に何度も立ち向かうという厳しい訓練を経てはじめて可能になる。したがって、適切な情動を形成する能力を身につけることができるのは一部のエリートだけであろう。ただし、神経科学が発達して、素晴らしい情動調整薬が出来上がれば、それを服用することで、適切な情動を形成することができるようになるかもしれない。しかし、このような認知的エンハンスメントには、否応なくそれを強制されるといった深刻な問題がある。エリート主義か、認知的エンハンスメントか。私たちは困難な選択を迫られるのだ。

このような発表にたいしていくつかの質問がなされたが、その一つとして、適切な情動を形成する能力に関して、エリート主義か認知的エンハンスメントかの二択ではなく、通常の多くの人がその能力を獲得するという第三の道は本当にないのかという質問がなされた。それにたいして私は、もしそのような方法がありうるとすれば、それは演劇を通じて情動を鍛えることだろうと答えた。役者は演技の訓練を通じて、さまざまな情動を形成する能力を身につける。それは演技といっても、そこで形成される情動はたんなる「情動の振り」ではなく、むしろ「本物の情動」である。一般の人も、このような演劇的な訓練を経ることで、状況に相応しい適切な情動を形成する能力を身につけることができるかもしれない。少なくともある程度は、それは可能であろう。批判的思考には演劇的な訓練がかなり有効である。私はこのように答えつつも、それが本当に多くの人にとって有効なのかという点については疑問を払拭できずにいたが、それでもなお、その可能性は探ってみるだけの価値があると思えるようになった。この点だけでも、私にとってたいへん有意義な質疑応答であった。

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勝亦佑磨 “Teleosemantics Based on Learning”

心的状態の持つ志向性を説明する代表的な立場として、目的論的機能主義が挙げられる。目的論的機能主義とは、心的状態を、生物の心臓や肺のように「生存に有益な」機能を持つ状態として捉えることで、志向性を自然化する立場である。目的論的機能主義の主流な見解は、ミリカンによる進化に基づく表象論(例えばMillikan, 1989)であるが、ドレツキのように、進化ではなくあえて学習に基づく表象論を提唱する論者もいる。だが、ドレツキの表象論は、誤表象を説明できないために問題があるとして、これまでに多くの批判を受けてきた(例えばFodor, 1984)。確かに、ドレツキ初期(Dretske, 1981)の表象論は、表象するものと表象されるものの間の関係を、厳密な法則による関係(すなわち情報関係あるいは表示関係)で定義するものであり、そのために誤表象を説明できないという問題を抱えていた。しかし、ドレツキは後に、以前の理論を大幅に修正し、学習に基づく新たな表象論(1988)を展開することで、誤表象問題への解決を試みている。本発表において私は、ドレツキのこうした新たな表象論が誤表象をうまく説明できているかどうかについて検討した。

ドレツキの新たな表象論によれば、生物の内的状態Cが外部の状態Fを表象するとは、「CがFを表示する機能を持つ」ことにほかならない。生物の内的状態Cは、行動における学習を通じて、外部の状態がFである際に生じるようになるとともに、身体運動Mを引き起こすようになる。ドレツキによれば、こうした学習過程において、CはFを表示する機能を獲得するのである。ドレツキはこのように機能の概念を導入し、こうした機能がうまく働かないときに誤表象が生じるのだと説明することで、誤表象問題の解決を試みる。しかし私は、本発表において、たとえ機能の概念を導入しても、表示の概念を用いる限り、ドレツキは誤表象をうまく説明できておらず、問題があると主張した。

発表後は会場からいくつか質問がなされたが、とりわけ興味深かったのは、以下のような問題である。ドレツキは、Fである際にCが生じ、そのCがMを引き起こすようなメカニズムによって私たちの心の持つ志向性を説明しようとする。しかし、こうした単純なメカニズムによって私たちの心がほんとうに解明されたといえるだろうか。こうした質問に対して私は、本発表において扱ったのは、いわゆる信念(あるいは少なくとも原始的信念)の自然化であり、意識及びクオリアに関してはほとんど何も述べていないことを認めた。とはいえドレツキは、さらに後の著作(1995)において、これらの心の状態の持つ志向性を、信念の場合と同じように、表示の概念及び機能の概念を用いて説明する。だが、そうだとすると、このような説明によって、ドレツキ表象論が私たちの心の持つ志向性をほんとうにうまく説明できているといえるかどうかは、検討の余地があるだろう。今後の課題にしたい。

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千葉将希“Evolution, Morality, and the Alief/Belief Distinction”

今回のワークショップでわたしは、近年メタ倫理学において論争となっている「進化論的暴露論法」(わたしたちが「人助けは善いことだ」、「赤ん坊の虐待は悪だ」といった道徳的判断をもつようになったのは結局のところ真理探究上の利点のゆえにではなく進化的利点のゆえであり、したがってこうした判断は正当化された知識とは言えない、とする論法)について、新たな観点を導入することで検討する発表を行った。その観点とはすなわち、哲学者のUriah Kriegel (2012, 2015) によって近年擁護された、道徳的アリーフ(moral aliefs)と道徳的信念(moral beliefs)の区別である。

ここで簡単に、道徳的アリーフと道徳的信念の区別について説明しておこう。アリーフとは、信念と対比される心的状態で、典型的には信念と行動とのあいだでミスマッチが生じたときに信念に代わって行動を説明すると想定されているもののことだ(Gendler 2008)。たとえば、人種差別は悪だという信念を疑いなくもっているにもかかわらずなおも人種差別的な行動をついなしてしまう人は、信念の点では反人種差別にコミットしているが、アリーフの点では人種差別にコミットしており、人種差別的行動をなしたのもまさにこの人種差別的アリーフのゆえなのだと説明される。アリーフと信念の区別は、近年同じく注目を浴びる認知科学の二重過程モデルともよくフィットしたものであり、このモデルに即して言えば、信念がプロセス2(低速で熟慮的で厳密な認知処理を行う)によって生産された心的状態と理解されるのに対し、アリーフはプロセス1(迅速で直観的で雑な認知処理を行う)によって生産された心的状態と理解される。

以上のような背景に基づき、本発表でわたしは、一般に道徳的判断に関する進化論的暴露論法とよばれるものには、「道徳的信念に関する進化論的暴露論法」と「道徳的アリーフに関する進化論的暴露論法」のふたつのバージョンがありうることを主張するとともに、これまで明示的に提示されることのなかった後者のタイプの暴露論法が具体的にどのように定式化され、どのような反論が可能なものなのか、考察を展開した。そのうえで、わたしたちの道徳実践においては道徳的信念よりも道徳的アリーフのほうがより本質的で重要な役割を果たしているものであり、したがって進化論から見たヒトの道徳性について考察する者は道徳的アリーフに関する進化論的暴露論法(およびそこから導かれる道徳的アリーフに関する懐疑論)を重く受け止めなくてはならないと論じた。道徳判断の二重過程モデルに依拠した進化論的暴露論法としては、これまでにも、「義務論は推論ではなく感情に導かれた道徳的信念であるから正当化されていない」と論じる、功利主義者のSinger (2005) やGreene (2008, 2013) による先行研究が存在している。しかしながら、義務論批判という特定の規範倫理的アジェンダに固執しておらず、より一般的な見地に立っている点、また「道徳的アリーフ」というより新奇な概念道具立てに依拠したうえで道徳心理学的に踏み込んだ考察をしている点で、本発表は目新しいものとなっている。

質疑応答の際には、「道徳的アリーフ」なる新奇な概念をどう理解すべきかという点がやはり議論となった。たとえば、道徳的アリーフに基づいて行動する者は自律性をもつと言えるのか、道徳的アリーフなるものを道徳的信念に還元されない独立した概念として打ち立てて本当によいのかといった点などである。また、特にBaehr氏からは、道徳的判断に関する進化論的暴露論法と(空間などの)物理的世界の認識に関する進化論的暴露論法との関係をどう考えるべきか(たとえ前者の暴露論法を受け入れるとしても後者の暴露論法は受け入れるべきでなさそうだが、その違いは結局どこから来るのか)という、認識論者ならではの質問をいただいた。以上のようなやり取りから、より堅固な議論の肉付けを行う必要性を痛感するとともに、進化論的暴露論法がもつ射程の広さや深さを改めて感じさせられた次第である。今後の研究の方向性が自覚できた、非常に有益な発表の機会をもてたことに感謝したい。

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