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【報告】「究極的な理由がないこの世界を言祝ぐ」

2016.06.30 中島隆博, 金景彩, 千葉雅也, 星野太, 大橋完太郎

主にはカント以降の、思考と存在の相関関係に基礎をおく相関主義、あるいは有限性の思考を批判するカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』の出版記念イベントが、2016年6月18日、東京大学駒場キャンパスにて開かれた。

「究極的な理由がないこの世界を言祝ぐ」という中島隆博氏による書評と同じタイトルをもつ今回のイベントは二部構成となっており、第一部では『有限性の後で』の共訳者である千葉雅也氏、大橋完太郎氏、星野太氏による問題提起がなされ、第二部では野村泰紀氏によるマルチバース論(多元宇宙論)にみる現代物理学における確率、偶然性についての講演がなされた。

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最初の登壇者であった星野氏は、メイヤスーを「思弁的実在論」から切り離して読むことの哲学(史)的意義を『有限性の後で』の読解から論証した。メイヤスーは「思弁的実在論」ではなく、「思弁的唯物論」という表現を用いており、それは絶対的なものへのアクセスが可能だとする「絶対論的」(≠絶対主義的)思考に基づいている。「絶対的存在者」ではない「絶対的なもの」、「絶対的に必然であるような何か」ではない「絶対的必然性」を探求するメイヤスーは、世界全体がなんの理由もなく他のあり方に変化しうるという絶対的「偶然性」を主張することで、カント以来の近・現代哲学全体を批判し、また「祖先以前的」な存在とそれにまつわる科学的言明に着目することで、「思考」に先立って「世界」が存在することの物理的な証明と言明から、「世界」と「思考」の相関性を前提とする「相関主義」をも批判する。星野氏は、メイヤスーによる「隔時性(dia-chronicité)」という概念を紹介しながら、世界と思考の隔たりは「祖先以前的なもの」のみに関わるのではなく、 近代科学一般の本性であること、またカントの「コペルニクス的転回」はむしろ哲学に「プトレマイオス的反転」をもたらしたことを論じ、さらに「絶滅」と「時間」の問題をめぐってレイ・ブラシエとマーティン・ヘグルンドから提出された批判を検討した。

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続く大橋氏は、主に『有限性の後で』第四章に基づいて問題提起を行った。「ヒューム問題」(「同一の原因は、未来においても、他ガスベテ等シイという条件で、同一の結果を引き起こすだろう、ということを証明することは可能か」)に対する「思弁的解決」としてメイヤスーがとる「非理由」の立場を確認することから始め、結果をもたらす諸法則の総体・全体を前もって想定している偶然性(hasard/aléatoire)と異なり、そうした全体性の概念を失効させる偶然性(contingence)がカントールの集合論に依拠することで獲得される過程を論じた。その上で、この偶然性が「触れる(tingere)」ことをその語源にもつことから、私たちはすでに何に触れているのかという問い、また数学とは異なる芸術的、詩的、宗教的な思考の役目とは何かという問いを提起した。さらに、カントールによるスピノザの『エチカ』解釈に反して、数学は真理が非人間的であることを示す唯一のツールであり、人間に知られうる神の属性としての精神と物体に加えて、数学は他の属性についても何事かを知らせうるのではないかという問いを提起した。

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第一部の最後の登壇者であった千葉雅也氏は、メイヤスーの議論を「科学的検証による物理的実在の記述を「真に実在的な」ものとして認定する、一種の科学哲学である」としつつ、そうした議論を、「差異」「他者」の新たな方式での問題化を行うポスト・ポスト構造主義的試みとして規定した。千葉氏によれば、 想定された一なる存在Xをめぐる思考の「並列的複数性」を前提とする相関主義(そこでは存在Xは思考の並列的複数性の媒介である)に対して、一なるものと想定された存在に複数性を「押し込む」ことで、存在が「直列的に複数化する」(ブツ切りで変化する)という描像が獲得される。このような、存在それ自体が私たちと無関係に変化しうるという思考を千葉氏は、一方で、ポスト構造主義以後において広く見られる「絶対的無関係」の肯定という思想的動向(グレアム・ハーマン、カトリーヌ・マラブー)として特徴づけ、他方で、解釈をまったく惹起せずにそれ自身に絶対的に閉じた純粋内在性、無解釈的なもの(解釈不可能なものですらない)の思考として氏が自ら名付けた「非人文学(non-humanities)」と関連付けた。解釈不可能なものをめぐり思考が並列的に複数化される場面での有限性とは「人間的有限性」であるが、最終的に千葉氏が提起する有限性とは「非人間的有限性」である。世界が純粋に直列的に切断されるならば、世界の変化可能性はいまここの世界のうちに積極的にあると言うべきではない。このことは、いまここの世界に様相的複数性が潜在していないこと、世界それ自体の有限性として、「無様相」を意味する。こうした無解釈性と無様相性こそが、「人間的有限性」の後で問題になる「非人間的有限性」である。

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第二部では、第一部での議論をうけて野村泰紀氏により、原理的に見えないものを想定することはいかなる意味をもつかという問いから出発して、現代物理学の観点から確率、偶然性の問題について講演が行われた。我々の宇宙において時間は物と物の相関を示すものであるが、その時間の外部に存在する(したがって原理的に見えない)複数の宇宙を想定するマルチバース論が、既存の宇宙論との比較において詳細に論じられた。野村氏によれば、このようなマルチバース論に基づけば、我々は気づかない間に別の宇宙に含み込まれてしまう可能性がある。これをうけて中島隆博氏は、多元宇宙論にしたがえば確率という概念自体が変化することになるため、我々は「確率的偶然性」について考えなければならないとした。

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ディスカッションのさいには、マルチバース論とメイヤスーの議論との間にいかなる相違が見出されうるかについて議論が交わされ、また、これほどまで抽象的な経験科学ないし現代物理学において「経験」とは何を意味するかという問いが提起された。これに対してフロアからは、現代科学はむしろ経験に対する不信に基づいており、それが唯一信用するのは数字である、という指摘がなされた。 絶対者(神)といかに対決するか(神をいかに追い出すか)という問題が哲学の核心にあるのだが、その代わりに数学が神の位置に置かれることになる。数学によって実在を思考することでメイヤスーの議論が数学的形而上学になってしまうとすれば、それは当初の目的と正反対の結果に至るのではないか、という疑問が提出された。

文責:金景彩(UTCP・東京大学大学院博士課程)

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