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【報告】Li Zehou and Confucian Philosophy Conference

2015.10.30 石井剛

たいへんありがたいことに、この8月よりハーヴァード大学のイェンチン研究所に招かれて訪問学者として研究を続けている。内外の変革の嵐の中で厳しい運営を強いられている大学の状況を尻目にサバティカルを取って海外でのうのうと暮らしているとのお叱りの声もあるかもしれない。だが実情は、のうのうと暮らせているどころか、東京から持ってきた宿題に追われながら、日々言葉が通じない孤独にさいなまれてともかく苦しい。ましてや、こちらに来て毎日触れるものごとのひとつひとつがあまりにもショッキングで、日本のアカデミアの中に身を置く一人の研究者として危機感を募らせる以外の感想をほとんど持てそうもない。現実は諸賢のご想像とずいぶん異なっているのだ。

ハーヴァードでのショッキングな見聞については、挙げればきりがないのでここでは詳しく紹介しないでおく。ともかくこちらでは、授業の設計、人員の国際流動性、インターネットや図書館など情報インフラの充実、キャンパス環境のすばらしさなどなど、「大学」とはまさにここだと唸らされることばかりだ。世界の大学ランキングがニュースでも取りざたされているが、この決定的な差の深刻さについて日本の教育行政やアカデミアの中でどこまで認識が共有されているだろうか。ニュースの伝える事実にはいまさら何の驚きもないのである。

さて、そんなわけでいささかネガティヴな思いを処理しきれぬまま、ハワイ大学とイースト・ウェストセンターが共同で開催するThe World Consortium for Confucian Culturesの学術会議に参加してきた。10月8日から11日まで開催されたこの会議の主題は「李沢厚と儒家の哲学 Li Zehou and Confucian Philosophy」。李沢厚(1930-)は新中国誕生以来今日に至るまで、主にカントとマルクスを吸収しながらユニークな美学的哲学を構築してきた現代中国きっての哲学者である。日本でもつとに紹介されており、日本語訳は2冊出版されている(1989年の『中国の文化心理構造』と1995年の『中国の伝統美学』)。

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今回は李沢厚本人を含めて、アメリカ国内のみならず、中国、韓国、ドイツ、ポーランド、スロベニア、カナダから研究者が集まり、三日間に及ぶ討論が行われた。東西哲学の対話を旨とする主催者は、まさにそのような対話の哲学を実践してきた李沢厚という稀代の哲学者の著作を英語に翻訳するプロジェクトを進めていることが会議の中で明かされた。西洋の哲学的諸概念を中国語のコンテクストに移植した李沢厚の言語をもう一度西洋の文脈に置き直すというのは、二重のトランスレーションであり、その困難は想像に難くない。しかし、このような作業を通じて、東西の対話はより豊かになるにちがいない。東西文明対話の実践的事例として李沢厚と儒家哲学というテーマはハワイ大学とイースト・ウェストセンターならではのユニークな試みだと言えるだろう。

この企画を中心となって推進したハワイ大学のロジャー・エイムズは、UTCPにとってはゆかりが深い。西側世界からの中国哲学解釈者として世界的に活躍している彼は、儒家思想研究を人類史的転換の時代に直面する人文学が避けて通ることのできない重要課題であるととらえている。もちろん、その構えに賛否はあってよい。しかし、わたしたちがここで考えなければならないのは、そのような転換期における東西対話に対してこそ、日本のアカデミアは真摯に応答していかねばならないのではないかということである。明治以降の近代化の流れの中で、東西対話を自らの内側の問題として葛藤してきた経験と蹉跌が持つ世界史的意味を反省的に問うことは大きく言えばかかる転換が平和裏に進んでいくために不可欠ではないかと思われるのだ。

李沢厚の場合、彼は中国の社会主義革命を否定し(「革命に別れを告げる」のスローガンで有名)、西洋的モダニティの下部構造の上に、儒家思想を核とする中国的文化伝統が組み合わされるのが望ましい(西体中用論)と一貫して主張している。それは具体的にはカント再解釈を通じたマルクスの批判的継承と儒家的礼楽実践のアマルガムとなる。マオイズムのもとでのボランタリズムと総動員体制の中で、国内では文革を招き、国際的には冷戦の一翼を担った中国の社会主義。それに対する体験に基づいた深刻な批判が李沢厚には一貫している。しかし、革命史の相対化にともなってせり上がってくるのが儒家的中華伝統の再評価であることはいったい何を意味しているのだろうか。李沢厚の議論が中国語世界内部で閉じるのでなく、英語を介した国際的なアカデミアで広く共有されることの意義はそれを問い質すことにある。そういう意味で、この会議はたいへん大きな意義を持つものであった。会議の内容は一部が書籍化される計画だとも伝え聞く。書籍の刊行が早期に実現することを望むばかりである。

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最後に。エイムズをはじめ、大会の組織者たちはハワイの常夏の太陽のように洋の東西から集まる学者たちを暖かく歓待してくれた。とくに彼の私邸でのクロージング・ディナーでは、国籍の異なる多くの学者たちが心から楽しく歓談することができた。ヒューマニティーズの根っこを支えているのが、それを営む人々の国を超えた「情」と「義」なのだということが、またしても確認できたわけだ。これこそはUTCPがやってきたこと、道半ばにして今なお目指し続けていることではなかったろうか。そして、日本の人文学を覆う閉塞の勢いを拒絶する風穴の一つはここにあるのではないか。

冬支度を済ませたボストンでそのようなことを考えながら、貴重なこの時間を有意義に過ごしたいと改めて思う。

文責:石井剛(UTCP)

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