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【報告】Guy Kahane氏講演会

2015.09.11 林禅之

2015年8月31日(月)、オックスフォード上廣実践倫理センター長代理 Guy Kahane氏を招いて講演会が開催されました。以下は東京大学大学院総合文化研究科の林禅之氏による報告です。

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オックスフォード大学Uehiro Centre for Practical EthicsよりGuy Kahane先生をお招きし、「歴史と人々(History and Persons)」というタイトルでの講演会が開催された。

過去には悲惨な出来事が数多く存在する。大量虐殺や致死性の病気の蔓延などにより、多くの人々が苦しみ、死んでいった。我々はこのような過去の出来事に対し、「こんな悲劇は生じなかったほうがよかったのに」と悲しみを覚える。他方で、我々の多くは、自分や自分の愛する者たちが歴史の中に存在し、存在し続けていることを嬉しく思う。これらは、我々(=人間)の自然な態度であろう。

さて、我々は自分の両親たちから生まれた。両親たちが出会い、受精がなされ、それから我々が存在しはじめた。もし、過去にあなたの父親が母親と出会うことがなかったとしたら、あなたはそれでも今、存在しているだろうか?多くの人が直観的にもっともだと思うであろう、人格についてのある哲学的な考え方によれば、あなたは存在していない。受精がしかるべき仕方でなされたことがまさに、あなたを存在させたのである。これを前提とするならば、過去の悲劇はあなたの今の存在と結びつく。もし過去のあの悲劇がなかったとしたら、あなたの両親は出会うことができず、それぞれが別の人と別の子どもを作ったかもしれない(あるいは、作らなかったかもしれない)。あるいは、そもそもあなたの両親自体が、あなたの祖父母が出会わなかったことにより存在しなかったかもしれない。いずれにせよ、過去の悲劇なしには、あなたの今の存在はありえないのである(もちろん、この立場(=「受精がしかるべき仕方でなされることによってあなたが存在しはじめた」と考える立場)に反論することも可能である。だが、今回のKahane先生のレクチャーは、この立場を前提としたらどのような帰結が生じるのか、を考察したものであって、この前提をターゲットとすることはある意味で的外れではある)。

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いまや、冒頭で触れた二つの態度——過去の悲劇に対する悲しみと、現在の存在に対する嬉しさ——は「実存的緊張(existential tension)」関係にある。一方で、自分たちが存在するためにも、過去の悲劇を悲しく思うことはないと我々は思うことができる。他方で、自分たちが存在しなかったとしても、過去の悲劇はなかったほうがよかったと我々は思うことができる。しかし、両者いずれとも魅力的な態度ではない。この緊張をどう解決すればよいのか?これが今回のレクチャーの発端となる問いであった。Kahane先生によれば、少なくとも我々には第三の選択肢が存在する。それが、「人を想う態度(person-affecting attitudes)」だ。我々は、過去の悲劇の犠牲者たち、顔のある、生の人生を生きた人々のことを具体的に想うことができる。我々は、過去の悲劇を、かれらがそれにより無念に苦しみ、死んでいったこととして後悔することができる。これは、単純にその悲劇的出来事がなければ生起したであろう、パラレルな歴史やその中に生きる仮想上の人々を想うこととは異なっている。我々は、現に生きたその人々のことを想い、歴史の重みと現在の自身の存在の重みの両方を感じることができるのである。

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質疑応答では、このレクチャーのなかの個人を、集団ないし国家という観点に置き換えて考えることが可能なのか、「歴史の中の我々」とは誰のことなのか、といった質問がなされ、それらについて丁寧に答えるKahane先生が印象的であった。その後のお茶を飲みながらのディスカッションも盛り上がり、非常に示唆に富んだ、刺激的な講演会であった。

(林禅之)

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※このKahane先生の講演会は、公益財団法人上廣倫理財団の招聘により京都でセミナーを開催するにあたり、UTCPとの間でも研究交流の機会を提案していただいたことにより実現しました。財団の配慮に深謝いたします。

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