Blog / ブログ

 

【報告】Jason Baehr教授連続講演会 "Virtue Epistemology"

2015.01.05 信原幸弘

2014年12月4日から11日にかけて、ロサンゼルスのLoyola Marymount Universityの哲学教授であるJason Baehr氏を招いて、 “Virtue Epistemology”をテーマにした5回の連続講演会をUTCPの主催により開催した。

徳倫理学が倫理的な善を達成するのに必要な倫理的な徳を探究するように、徳認識論は認識的な善(真なる信念や理解など)を達成するのに必要な知的な徳を探究する。真なる信念を確実に形成するには、良い知覚力や正確な推論力のような能力的な徳が必要である。しかし、このような徳だけではなく、偉大な科学上の発見の場合がそうであるように、粘り強い探究や偏りのない考察を行うといった性格的な徳もしばしば必要である。

徳認識論は認識論における近年の潮流であるが、そのなかには、認識論にとって能力的な徳だけで十分だとする信頼性主義的な徳認識論と、それだけではなくむしろ性格的な徳こそが重要だとする責任主義的な徳認識論があり、最近、とくに盛んになってきたのは後者の責任主義である。Baehr教授はこの責任主義的徳認識論の世界的な旗手の一人である。

今回の連続講演会では、徳認識論とは何かという原理的な問題(第1回)から始まり、知的徳と倫理的徳の関係(第2回)、知的徳の分析(第3回)、信頼性主義から責任主義への批判に対する応答(第4回)を経て、最後は公けの場における討論の作法の問題(第5回)にまで至った。どの回も、じつに熱気溢れるBaehr教授の講演と、それに劣らぬ熱い質疑応答が繰り広げられた。以下では、各回の特定質問者にその回の模様を簡単に報告してもらった。各回の興味深い内容と熱い質疑応答の一端が伝われば幸いである。

信原幸弘(UTCP)

Baehr1.JPG

第1回:What is Virtue (12月4日)

第1回の講演では、今後の講演に対するイントロダクションの意味も込めて、徳認識論という分野全体に対する概観がなされた。

徳認識論とは一般に、知的徳の概念に焦点を当てた哲学的考察のことを指す。徳認識論には、信頼性主義と責任主義と言われる二つの潮流がある。前者は、信頼できる真理獲得能力として知的徳を捉える考え方であり、後者は、知を目指す性格特性や動機として知的徳を捉える方向性を指す。Baehr教授が研究対象とするのは主に後者の、責任主義的な徳認識論である。

Baehr教授によれば、責任主義的徳認識論の中でも、徳の概念が認識論に果たす役割について、いくつかの立場を分けることができる。一方に、徳の導入が伝統的認識論の問題を解決すると考える立場があり、保守的徳認識論と呼ばれる。他方、徳の概念は伝統的認識論から独立した問題領域を持つと考える立場があり、これを自立的徳認識論と言う。さらに保守的徳認識論の中には、徳の概念が伝統的認識論の問題の解決について本質的な役割を果たすと考える強い保守的徳認識論と、二次的な役割を果たすと考える弱い徳認識論がある。また、自立的徳認識論の中でも、徳認識論だけが有意義な認識論であり、伝統的認識論は問題設定を誤っていると考える強い自立的徳認識論と、両者は同等に意義を持つと考える弱い自立的徳認識論がある。このような区別を提示した後、Baehr教授は、強い保守的徳認識論と強い自立的徳認識論に対する批判を行い、弱い保守的徳認識論と弱い自立的徳認識論を擁護した。

特定質問においては、飯塚がまず、徳の概念が合理性の概念に依存していることを指摘し、これを明確化する必要性を提示した。その後鈴木が、強い保守的徳認識論一般を一度に批判するBaehr教授の方針は性急に過ぎ、個々別々の議論に対するきめ細かな検討が不可欠ではないかと質問した。両者の指摘について、概ねBaehr教授も同意していた。その他、受動的知識と徳、教育と徳認識論といったテーマに関して活発な議論がなされた。
(鈴木佑京)

Baehr2.JPG

第2回:Virtues: Intellectual and Moral(12月6日)

今回の講演の中心的話題は道徳的な徳と知的徳をいかに区別するかということであった。この問いは、道徳的徳と知的徳を区別する規準を発見することを目指すだけでなく、二つがどのような関係にあるのかという問題も含んでいる。今まで、徳倫理学者や徳認識論者は二つの区別を行為や信念、繁栄といった様々な概念を用いて試みて来た。また、二つの間の関係は、知的徳は結局道徳的徳に還元されるという考え、知的徳は道徳的徳の部分集合であるという考え、二者は独立した徳であるという考え、これらの三つの可能性が挙げられて来た。二者が独立した徳であるとする分析の代表的な例としては、道徳的徳を行為の領域の徳、知的徳を信念形成領域の徳であるとする見解がある。しかし、責任主義徳認識論者が探究という我々の「認識的な行為」に注目していることに気がつくと、このような区別方法は上手くいかないことがわかる。

二者の区別を、それぞれの徳が目指すものの違いに訴えようとする者もいるが、知的徳が知識や真理、理解、知恵という明らかに知的な性質を持った諸目標の達成を目指しているのに比べ、道徳の目指すところを描き出すのは難しい。Baehrは道徳の本質を、他者の利益や関心を満たすこと、すなわち他者関心性という側面から分析した。そして、いかなる知的な徳(個別的な徳)も、それらが有徳な行為者によって完全に保持される時、他者の知的な利益や関心の促進にも向けられると考えた。このように考えることで、有徳な人は自己利益のみを追求するのではないという我々の徳観と、知的に有徳な人は知的な善さを求める者であるという徳観の、両方を汲み取ることができる。しかし、我々は道徳的徳を独立の徳の領域をなすものとして考えているにも関わらず、他者関心性だけではそのまとまり全体を捉えることができないので、別の仕方で更に道徳性を定義する必要があるのではないかという新たな問題にも言及がなされた。

質疑では、まず、我々の知的活動には獲得、維持、コミュニケーションという三つの領域があり、道徳性、すなわち他者関心性はコミュニケーションの領域が必然的に持つ性質ではないかという質問がなされた。Baehrは、コミュニケーションに貢献しない徳を想定することも可能であるという点、また、知的活動が三つの領域に尽くされない点を強調した。次の質問は、完全な知的徳に道徳的徳が含まれるなら、完全な知的徳の発揮時には、知的徳と道徳的徳が葛藤を起こさないよう調停する実践的知恵が要請されるのではないかというものだった。この質問に対してBaehrは、確かに完全な知的徳は道徳的徳でもあるが、これは、道徳的徳として完全なものではないと答えた。真に知的に有徳な者には確かに様々な知的徳を調停する実践的知的知恵を持つことが期待されるが、知的徳に含まれる道徳的徳は不完全なので、そのような主体に様々な道徳的徳を調停し適切な道徳的徳を発揮することを期待することはできず、また、知的徳と道徳的徳の葛藤を最善の仕方で調停することも期待できないという点が明らかにされた。

これらの問題は今後も議論が続いていくことが期待される。特に、道徳性の本質をどう捉えるかによって、知的徳との関係も明らかにされるだろう。
(飯塚理恵)

第3回:The Four Dimensions of an Intellectual Virtue(12月7日)

徳認識論において、知的徳に関する論者の多くは、これまで「動機」の次元を強調してきた。しかしながらBaehr氏は、本講演において、こうした「動機」の次元だけでは捉えきれない問題があると考える。

例えば、単に知的善へと向かうような活動への動機を持つ者よりも、同じ動機を持ちつつもその活動に喜びを感じている者の方が有徳に思われる。こうした例は、動機の次元では説明できず、「情動」の次元による説明を加える必要がある。また、知的注意深さのような性格特性を持つ者の例(例えば自分の書いた論文に誤りがないかを繰り返し確認する人物)においても、動機のみならず注意深く振舞うことができるという「能力」の次元による説明が必要である。このような議論を通じてBaehr氏は、動機のほかに情動、能力、さらに判断といった4つの次元を含んだモデルを展開し、これらを知的徳の所持の条件とする。Baehr氏は、こうした4つの次元を含んだモデルは知的徳における信頼性と運の問題に一定の解決を与えることができるという。

私は特定質問者として、本講演の土台となった論文“The Cognitive Demands of Intellectual Virtue”(Baehr, 2012)で主張されていた徳への「結合信念要求」に、情動がいかに関係しているかについて質問した。その内容は次の通りである。

Baehr氏によれば、ある人物を有徳(知的徳であれ道徳的徳であれ)とみなすことができるかどうかは、本人がその徳に特徴的な活動が善の達成に貢献するという結合信念(徳を善に結びつける信念)を持つかどうかに関わる。したがって、行為者本人がその行為が善の達成に貢献すると信じていないにも関わらずその行為をする場合、彼を有徳であるとみなすことができない。しかしながら質問者としては、そのような場合でも、その行為がじつは善の達成に貢献しており、しかもたまたま貢献しているのではなく、それなりの必然性をもって貢献していることがあるのではないかと考えた。というのも、信念が行為と善との関係を正しく捉えていなくても、情動がその関係を適切に追跡している場合があるからである。そうだとすれば、このような人物を有徳であるとみなせる場合があるのではないかという疑問をぶつけた。

これに対してBaehr氏から得られた回答は、次のようなものである。確かに情動が行為と善の関係を適切に追跡していたという点では、その行為はそれなりの良さがあるが、しかし本人の視点からすれば、その行為は善ではなく、むしろ悪を生む行為であり、そのような行為を行っている者はやはり賞賛に値しないだろう。つまり、Baehr氏によれば、情動よりも信念のほうが重要であり、その人物自身が彼の行いが善いと信じていない場合、彼を有徳であるとはできないのである。
(勝亦佑磨)

Baehr3.JPG

第4回:Character Virtues, Epistemic Agency, and Reflective Knowledge(12月8日)

「徳信頼性主義」は高い蓋然性で知識を生み出す(=信頼可能である)認知能力(知覚、記憶、推論などの能力)こそが「知的徳」であるとする。今回の講演では、徳信頼性主義者アーネスト・ソーザとBaehr氏の論争がとりあげられた。ここではこの論戦の一つの大きな筋を紹介したい。

Baehr氏はかつて自著で次の議論を提示した。信頼性主義的な知的徳にとって重要なのは、それが信頼可能かどうかだ。しかし、「注意深さ」、「心の広さ」や「忍耐強さ」などの性格の発揮も、多くの知識を信頼可能な形で生み出す。従って信頼性主義者は、認知能力だけではなく性格も知的徳だと認めるべきだ。

これに対してソーザは現在準備中の論文で、知的徳とはたんに信頼可能なだけではなく、それを発揮すると知識が手に入るものだとして、見解を明確化している。そしてこの意味での知的徳にはたしかに認知能力以外のもの、たとえば性格も含まれるが、「注意深さ」、「心の広さ」などの性格は背景的なものにすぎないと論じる。というのは、例えば注意深さの発揮は知的探求を円滑に進めるのには重要だが、注意深さを発揮すると知識が手に入るわけではなく、知識を得るには知覚や推論が必要だからだ。

Baehr氏はこの反論を受けて、性格は知覚や推論においても現れるという点に注意を促した。たとえば「注意深さ」は、注意深い観察や注意深い推論において現れ、それによって知識が手に入る。この場合、性格の発揮によって知識が手に入っているのである。

特定質問は飯塚と私(片岡)が行った。飯塚は、ソーザの上記の知的徳の定義をさらに明確化すると、Baehr氏の見解との相違はそう大きくはないと指摘し、この提案は好意的に受け取られた。一方で片岡は、ある種のデカルト的悪霊に欺かれた世界、すなわち、私たちの世界で有徳だと見なされるような人が真理を手に入れられない世界を想定し、両見解がこうした世界における人々の知的徳のあり方をどのように理解するかという点を比較検討した。このコメントはそのまま全体の議論につながり、この種の悪霊世界と知的徳との関係について様々な観点から激しく議論が交わされた。恐らく最も伝統的な意味で「認識論的」であった本講演は、徳認識論と旧来の認識論の実り豊かな対話の可能性を私たちに認識させた。
(片岡雅知)

第5回:Intellectual Virtues, Civility, and Public Discourse(12月11日)

本連続講演会の最終回である第5 回は、礼儀正しさ(civility) をめぐる話題であった。礼儀正しさといっても、公共の場における討論でのそれに限定して議論が始まった。議論の機序は次のようであった。まず、アメリカのテレビ番組における2 人のジャーナリストによる討論を、礼儀正しさを欠如した極端な例として挙げ、ここで何が問題となっているのかを分析する。そしてその結果、知的徳・知的悪徳という理論的枠組を用いてこの問題を記述することがきわめて有効な方法であることが判明する。また、知的徳・知的悪徳という理論的枠組のもつ評価的な側面が、なぜ礼儀正しさを発揮し、無礼さを発揮しないようにすべきなのか、その根拠を与えてくれる。したがって、礼儀正しさの欠如という問題にたいしては、個別の知的徳(懐の深さ、知的謙虚さ、公平さ、知的誠実さ、注意深さなど)を個々人が発揮することが処方箋となる。ここで議論の射程が広がり、この知的徳を涵養する責任が学校教育にあることが説かれる。以上の議論にたいするいくつかの反論について検討して講演は終了した。

わたしは本講演の特定質問者として、つぎのような質問を投げかけた。Baehr氏によれば、知的徳が発揮されるときには、たいていの場合、認知能力の使用ないし作動がともなうという。ということは、認知能力の使用や作動において失敗や誤りが生じた場合、知的徳は発揮されえないということになろう。とするならば、知的徳の発揮には認知能力の適切な使用や作動が必要であって、それゆえ、この要素は知的徳が貢献するとされる、人格的な知的価値にも必然的になんらかの貢献をなしているはずである。Baehr氏の動機中心的な知的徳の定式化には、認知能力の使われ方という重要な側面が欠如しているのではないか、というのがわたしの疑問であった。これにたいしてBaehr氏は、認知能力の使われ方は動機という要素と切り離してではなく、それと組み合わせて考えるべきだと思う、との応答だった。認知能力の使われ方が動機のあり方と深い関係をもっているという考えはきわめて自然であり、この関係にBaehr氏がこれまで以上の注意を払ってくださるなら、わたしの質問の意図は達成されたといえよう。
(中岡香林)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】Jason Baehr教授連続講演会 "Virtue Epistemology"
↑ページの先頭へ