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2014年度東京大学-ハワイ大学夏季比較哲学セミナー準備会(3)

2014.09.10 川村覚文, 佐藤麻貴, 神戸和佳子, 栗脇永翔

2014年8月にハワイ大学において開催された、東京大学―ハワイ大学共同比較哲学セミナーの三回目の準備会の様子を報告します。今回はUTCPの中島隆博氏の論文を読み、「天下」概念を巡って議論を行いました。

7月15日(火)

7月15日に行われた準備会では中島隆博先生の論文「唐君毅における/以後の中国的普遍性」(2014年)を出発点に活発な議論が交わされた。

いわゆる「ポストモダニズム」の極端な相対主義の後でいかに「普遍性」の問題を思考することが出来るのか。この問いを考察するために本論文で参照されるのが新儒家の代表的論客・唐君毅(1909‐78年)の議論である。必ずしも専門家ではない報告者にどこまで正確にトレースすることが出来るかわからないが、中島の議論を簡単にまとめることにしたい。

中国的普遍性としての「理」や「共相」を《間主観的なもの》と見なす唐の議論においては、「普遍性」の問題が「道徳性」の問題と密接に関わることになる。有限な存在である各人は部分的にしか「理」を持つことが出来ないが、「学術活動の分割」により他者の知(=「理」)を共有することが出来るようになる。それゆえ、各人には「私欲」を排することが求められることになり、ここで「普遍性」と「道徳性」が結びつくことになる。中島の議論は徐々に政治的な次元に移行するのであるが、唐によれば、「民主主義」はかならずしも完全な政治システムではない。そのため、「民主主義」と「道徳性」を媒介する「教化」が要請されるのであるが、唐において、こうした発想は「中心的な国家」が相対的に道徳的ではない他の国家を「教化」するという「天下国家」の思想に行き着くことになる。こうした唐の議論は「中国こそが中国的価値と西洋的価値を綜合する」と主張する赵汀阳や、唐や赵の発想に「文明化の傲慢」やある種の「自己中心主義」を見る许纪霖に引き継がれることになる。

論文中、中島は必ずしも明確に自らの主張を示しているわけではないように思われるが、報告者の考えによれば、本論文の重要なポイントのひとつは普遍性の導入がともすればnaïveな発想になり変わってしまうという点である。教化による普遍性の導入では必然的に「中心的な国家」が力を持つことになるが、こうした傾向は他の国々(=他者)を包摂する自己中心的なシステムを生む危険性を孕んでいる。このような問題を考える際、報告者にはヘーゲル的=弁証法的な「全体性」を批判した『全体性と無限』のレヴィナスや、同様に弁証法的システムを「モノローグ」として批判した『探求Ⅰ』の柄谷の議論等が思い出されるが、だとすれば今度は再び、相対化の作業が求められることになろう。それゆえ、ここで問題となるのは普遍性の導入と相対化の作業の循環的構造であるようにも思われるし、ここで問わなければならないもうひとつの重要な問いは、こうした構造それ自体が成立する「条件」そのものに対する問いであるかもしれない。

準備会で交わされたすべての論点をまとめることは出来ないが、報告者の中で最も印象的であったのはこうした普遍性と相対主義との関係に関するものであった。8月に行われるサマーインスティチュートでも、引き続き考察を続けたい。

(文責:栗脇永翔)

7月27日(日)

7月27日の準備会では、中島隆博先生の“Chinese Universality In and After Tang Junyi” について、佐藤が報告を担当し、参加者による英語の討論が行われた。

中島先生の論文では、Tang Junyiの天下思想を通して、グローバル化時代における普遍性と複数の特殊性について検討され、また中国の普遍性が特殊性を超克できるのかについて、Tang Junyi以降の思想家の思索を紹介しながら論じられていた。報告者は、中島先生の論文から、いくつかの論点を抽出したが、中でもTang Junyiの天下思想がナイーブ且つ、その思想から含意されるとしてTang Junyiが強調している教育や文化の重要性が、中国の現代政治においては、拡大解釈され、場合によっては悪用される可能性があるのではないか、と指摘した。出席者たちによる討論は、報告者の指摘に基づいて、展開した。下記は、討論の中でも特に面白かった点だけを、紙面の都合上、抽出して報告する。

佐藤の報告を受けて、天下思想という普遍性を志向する思想において、文化の多元性は本当に担保されるのか、という指摘を川村氏が行った。すなわち、普遍性というものを追及しようとすればするほど、そこには権力構造が内包され、天下において多元性を一見確保されているように見受けられるものも、それは何かしらの抑圧的なものの下部においてのみ可能であるものに過ぎないのではないかという指摘であった。この指摘に対し、姚氏は、天下という一見すると緩やかな構造は、ある種のモラルに基づいて成立するものであるのではないかと応答した。また、中国思想(儒教)において天下に基づいたガバナンスが行われない場合、人々が革命を起こしても良いという考え方があり、周恩来が「人間と環境の調和」を謳った時も、こうした考え方が背景にあったのではないかと指摘した。ここから、モラルというものが特定の文化価値に基づいて成立するものである場合、普遍的なモラルはどこから導出されるのか。日本におけるアイヌや沖縄などのある種の植民地政策に始まった日本という普遍性への内部化は成功しているといえるのか。デリダは他者に対して開かれていないといけないと言っているが、他者に対しての寛容はどの程度まで認めうるのか、例えば規範に反するような他者に対しても寛容であるべきなのか。社会というものが想像的な主体に過ぎず、政府により合法的なものと認められているものであるならば、そこに見られる権力構造を国際的に展開し得るのか。天下といった場合、国が主体なのか、グローバルを主体として見るのかという二段階の議論があり、そもそも、それを分けて考えることは可能なのか、といった議論が展開されていった。

どの発言も非常に示唆に富み、時間が経つのを忘れてしまった。今回の勉強会では、特に結論のようなものは出なかったが、土曜の午後の勉強会だったにも関わらず、討論は白熱し、終了時間は予定時間を大幅に過ぎてしまう内容の濃い勉強会だった。

(文責:佐藤麻貴)

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