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【報告】東アジアから問う「新しい普遍」

2014.04.16 中島隆博, 石井剛, 川村覚文, 佐藤空, 小林康夫, 清水将吾, 金杭, 神戸和佳子, 杉谷幸太

<UTCP-延世大学国際会議:東アジアから問う「新しい普遍」>は天候にも恵まれ、東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム3で予定通り実施された。会議は,最初から関係者だけでなく、予想を超える数の聴衆の参加の下で行われた。

はじめに,白永瑞氏より「東アジアから「西洋近代の主権体制」を見直す」という題で基調講演があった。「新しい普遍」を模索する上で、近年では2つの流れがあり,それは,中国論壇からの試みと東アジア諸国間の対立を通しての模索であった。

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次に黄静雅氏からは「東アジア論からの普遍は可能なのか?」という題目での報告があった.ここでもヨーロッパ中心主義という考えとどう向き合うかということがまず問題とされた。また、アジアが1つのアイディンティティで規定することができないということの意味が検討された。

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さらに、石井剛氏から「受苦としての普遍性―『史記』の世界構想と武田泰淳の文学-」というタイトルで報告があった。武田泰淳の『司馬遷』のなかで描かれた中心なき世界のすがた、そして、そのような世界のあり方を受け入れるために、武田泰淳にとって敗戦が必要だったことが指摘された。

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それぞれの報告のあとでは活発な質疑応答がなされた。その中では、全体として、ヨーロッパが示した普遍性をどう乗り越えるかといったこれまでも繰り返されてきた問いから、日本のヘイト・スピーチや中国発の大気汚染といった近年話題となっている問題まで様々なテーマが話題に上った。これらの問題・課題をどう克服するか、まだ道のりは険しいが、新しい「普遍性」を構想するのに必要なステップを着実に踏み出しつつあるとの印象を受けた.

第二部では、金杭氏、林少陽氏、中島隆博氏の3名が発表された。第一部・第三部と比較すると、「日本」という問題が中心的に取り上げられたセッションとなった。

金杭氏は「小林秀雄と丸山真男の「日本論」に見る「普遍」への問い」と題し、日本における普遍(の欠落)の問題に対する小林と丸山の対照的な態度を描かれた。普遍を希求する丸山と脱普遍を目指す小林が、実は共に「普遍化」の論理を問いに付していたことを確認した上で、しかし彼らはいずれも、異なるものの混在を許さない普遍という限界をも共有していたことを指摘した。

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林少陽氏は、「近代日本の「世界史」あるいは[反]帝国論の系譜 ―京都学派からフクヤマ論文に対する反応へ―」と題し、日本思想史に潜むある特殊な言説を取り出すことを試みた。フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』に対する柄谷行人の反応と、1930〜40年代の京都学派の世界史や帝国をめぐる言説には、連続性があるのみならず、それは同型的な変奏とも見てとることができると指摘された。

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中島隆博氏は、「東アジアから新しい普遍に向かうために ―漱石と宣長の差異―」 と題し、夏目漱石の趣味に対する態度と、本居宣長の「物のあはれ」と「てにをは」の扱いを参照しながら、どこまでも主観的な判断である趣味判断にもとづく普遍の構想を提起された。

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「新しい普遍」を「東アジアから問う」ことを試みるなら、かつて日本から新しい普遍を問おうとした人々の、功績も深い過ちも、私たちは無視することはできない。彼らの「日本から」と私たちの「東アジアから」はいかに違うのか、それはどのような関係に立っているのか、という重要な問題が、第二部の議論から浮き彫りになったように思われる。

第三部は、UTCP助教の清水将吾氏、川村覚文氏と、韓国の徐輔赫教授の発表が行われた。分析哲学を専門とする清水氏は、知覚における普遍と特殊の問題を扱った。知覚に含まれるのは、「丸である」という普遍性なのか、「この塔だ」という特殊性なのか。様々な論者の説を検討した後、清水さんは知覚のなかに、常に普遍性に解消されない「まさにこの」という特殊性が残るはずだという。この「この」性を説明する議論として、大森荘蔵の「立ち現れ一元論」と、九鬼周造の「可能的離接肢」の議論が提示された。

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川村氏の発表は、世俗化(政教分離)という近代原則を疑うポスト世俗主義哲学における、公共性と宗教の関係についてであった。宗教を公共的普遍性の一要素として積極的に取り入れる立場と、逆に政教分離そのものを近代という虚妄の普遍性の原動力として批判する立場が紹介されたのち、シュミット的な「主権」の超越的根拠づけとして宗教が回帰する場合として前者があり(R・ベラー等)、根拠づけを計算可能性に置く「統治」に対する抵抗の可能性として後者(ハキム・ベイ)を位置づけられるのではないか、との見通しが示された。

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徐輔赫氏の発表は、90年代以降北朝鮮の人権状況が明るみに出る中で、韓国において、普遍的なはずの人権概念が保守派と進歩派の権力闘争と結びついていることが、白永瑞教授の「東アジア分断体制」概念とも関連させながら説明された。

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フロアからの質問は川村氏の発表に集中し、主権に宗教的超越性(神)は必要なのか(ボダン主権論の例)、宗教の根源にある暴力がアウシュヴィッツにつながったというベンヤミンの指摘をどう考えるか、などの問いが提示された。

清水氏の発表については、執筆者の感想を述べておくと、そもそも「知覚的立ち現れ」と別の「思い的立ち現れ」や、「眼前の生の偶然性」など、知覚外の何かを持ちこむことで知覚の特殊性を根拠づけるならば、ではその「何か」はあらゆる意味で知覚されないのか。九鬼の「~でもありえる」という拡がりを逆に特殊性の根拠へと(大森の独我論と似た方向へ)縮減しているのではないか。

こうした点を考えると、東アジア(日本近代)の哲学的営為と、西欧のたとえば分析哲学の伝統には、そもそも方法論的差異があり、安易な接合を許さないと思われる。「東アジアから問う新しい普遍」が困難な課題であるのは、このあたりにも理由がありそうである。

(報告 第一部 佐藤空: 第二部 神戸和佳子:第三部 杉谷幸太)

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