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梶谷真司「邂逅の記録60:「こまば哲学カフェ」を終えて」

2013.12.19 梶谷真司, Philosophy for Everyone

2013.12.19 「こまば哲学カフェ」を終えて

11月22日(金)から24日(日)まで、東京大学駒場キャンパスの学園祭「駒場祭」が開催され、P4E研究会として「こまば哲学カフェ」を出した。これまでプロジェクトとしては、2、3ヶ月に一度、テーマを決めて講演+対話という形でイベントをやってきた。そして、「哲学対話」というものに対して、広く強い関心と需要があることが分かった。何度もイベントに足を運んでくれる人もいる。また研究会のほうに参加する人も増えた。学内だけでなく、学外からも学生や社会人、カフェやNPOの運営をしている人、年齢も様々な人がワークショップや人づてに興味をもって集まってきた。

そこで駒場祭という機会を使って、研究会のメンバーからアイデアを出してもらっていろんな実験を行い、哲学対話の可能性を試してみようと考えた。まず私自身の企画として、二つの案を出した。一つ目は、学園祭と言えば、男女の出会い、合コンである!ということで、「愛」をテーマに対話。そうして恋愛や結婚などの男女関係(あるいは愛情に根ざす親密な関係)の構築や改善、相互理解にどう作用するか試そうと考えた。題して「「愛」を語ろう ~哲学対話で恋愛力UP!!」 もう一つは、私が京都の総合地球環境学研究所でとっているプロジェク ト「地域性と広域性の連関における環境問題 ~ 実生活への定位と哲学対話による共同研究」との関連で行う「環境」についての対話。ここでは都市で生きることと地方で生きること、都市と地方の関係について語り合う。そこで「環境をめぐる哲学対話 ~都市と地方の問題から」というイベントになった。

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それ以外は、研究会のメンバーに企画を立ててもらい、そこからみんなで練り上げていった。その結果、実に多様な対話が生まれた。創作の物語で宇宙をネタに話すもの。女性限定で結婚について語る時間。親子で絵本を読んで行う対話。演劇で役柄を演じながら自己表現をするもの。お菓子やパンを食べる自分の姿を鏡で見て人間と動物の境界を問うもの。対象もいろいろだ。中学生以上、中高生、高校生以上の女性、小学生と保護者、18歳以上、4歳くらいから大人まで、等々。極めつけは、0歳から大人、というものだ。テーマの点でも対象者の点でも、まさしく実験の連続である。
詳しくは↓
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2013/11/komaba_philosophy_cafe/

11月22日の9時。駒場祭が始まり、カフェもオープン。最初の1時間「朝の哲学カフェ」は誰も来ないだろうと思っていた。テーマも設定していないし、メンバーだけで絵本の企画で話し合いでもするか、のんびりおしゃべりでも、と言っていたのだが、いきなり2人やってきた。そこでさっそくオスカー・ブルニフィエの「こども哲学」から問いを取り上げ、そこから選んでもらった。メンバーを含めて、5人での対話だった。

最初はたまたまかと思ったが、このたった二人と言えばたった二人の客が開店と同時に入ってきたのは、この後の出来事を象徴していた。ここから3日間、朝9時の開店から夕方6時の閉店まで(最終日24日は5時まで)、客が途切れることはまったくなく、私たちは休む暇もなかったのである。そして最終的には、延べ200人を超える参加者となった。しかもその大半が、いわゆる「内輪」の人ではなく、一般参加者であった。ネット上で事前に知ってわざわざこの企画のために学祭に来た人もいれば、パンフレットの中に出していたわずか数行の紹介文を見て来た人もいた。通りがかりに興味をもって入ってきた人もいた(これは廊下で立ち止まった人に声をかけてくれたスタッフの力が大きいが)。さらに驚いたのは、わずか3日の間でリピーターが何人もいたことだ。3日間通い続けてくださった人もいた。

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全体的には30代~40代が多く、年配の人もそれなりにいた。20代もけっこういたが、学生や高校生は比較的少なかったように思う。親子企画もあったおかげで、子ども連れや、家族で来ていた人もいた。遠くから自分の生徒を連れてきた高校の先生もいた。どの企画も参加者が少なくてさみしいということはなく、23日の「愛」の対話企画は、50人を超えて椅子が足りなくなるほどだった。個々の企画についての報告は、近いうちにそれぞれの立案者のほうから出てくると思うが、全体として、哲学対話はどのような形でやっても、おおむねうまくいくことが分かった。もちろん、企画によって思った通りにはいかないとか、もう少しうまくやれたのではないかという反省点はある。しかし、それは企画のテーマや形式そのものの問題ではない。そうなる問題は、哲学対話の面白さ、一般的な対話との違いはどこにあるのかということである。

一つには、いわゆる哲学的な問いかどうかはともかくとして、一般性の高い、言い換えれば、誰にとっても多かれ少なかれあてはまる問いについて語り合うということである。哲学対話では、まず参加者に疑問を出してもらうことが多い(大枠のテーマが決まっていることも決まっていないこともある)。その後投票で話し合う問いを決めるのだが、ここであまりに特殊なもの、個別的なものは自然に消え、誰でも何か言えそうな問いが選ばれる。それはしばしば哲学的な問いに近いか、いずれは哲学的な次元に接続しうる問いである。

二つ目は、一点目と密接に関わるが、誰でも何か言えそうな問いは、それぞれが自分の経験に基づいて具体的に話ができるといことである。それを各自が持ち寄ることで、経験が豊かになり、その根底にある前提や理由も、そこに込められた意味も、そこから出てくる帰結もそれぞれに考え、また共に考えることができる。

三つ目は、これも上記二つと連関するが、特殊な知識を前提せずに対話ができるということである。もちろん、そうした一般的な問題について、哲学をはじめとして、様々な学問的な知見もある。しかし、それを対話に持ち込むと、積極的に発言する人と、それをただ聞く人、教えてもらう人に分かれてしまう。どちらも自ら考える、という姿勢が弱くなる。そうではなく、自分の経験に基づいて話をすることで、誰もが話し、聞き、教え、教わるという役割を果たし、経験とそれについての思考を共有する。

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こうした対話の空間は、日常生活の中ではほとんどない。哲学対話の前に、私はいつも説明するのだが、私たちはふだん、言いたいことを自由に言っていないし、疑問も自由に持って口にしていない。どのような場であっても――教室、会社、家庭、友人関係――言っていいことと言ってはいけないことがある。そのルールの中でしか話ができない。有意義なこと、正しいこと、相手が望むことを言わねばならず、当たり前だとされていることに疑問をさしはさんではならない。哲学という学問の中ですら、それはある(というか、一般よりも強い)。また相手に理由や意味をじっくり聞いてはいけない。答えに窮したり、考え込まなければならないような事態は回避しなければならない。

こうしたことが哲学対話ではすべて許されている。どんな些細なことでも、間違ったことでも、相手の望みを斟酌せず、日頃思っている疑問を、安心して口にすることができる。そして安心して答えに窮し、考え込むことができる。それを妨げたり、急がせたりすることもない。また、話したくなければ話さず、ただじっと聞いて自分のペースで考えることもできる。それを一人ではなく、共同で行う。それが哲学対話であり、そこで思考が広がり、深まっていく体験が"哲学的"なのである。おそらく多くの人にとって、それは稀有な満たされた時間なのであろう。

来年も駒場祭でさらなる実験をしていくつもりである。

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