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【報告】首都師範大学「トラウマ記憶と文学表象‐文学はいかに歴史を書くか」国際学術会議

2013.09.09 杉谷幸太, 東西哲学の対話的実践

2013年5月27日、28日の2日間、北京で「トラウマ記憶と文化表象――文学は如何に歴史を書くか」をテーマにかかげた国際学術会議が開かれた。主催は北京・首都師範大学で、UTCPからは杉谷が参加し、発表を行った。

この会議のテーマに「中国」の文字がないことにまず注目したい。学問先進国の欧米や日本では当たり前かもしれないが、国際的、学際的な学術会議にするのだ、という主催者の意図が見てとれる(主催組織が文学院の中国近現代文学専攻、文芸学専攻、比較文学と世界文学専攻の共催となっているのもその表れ)。力のはいったテーマ設定なのである。

首都師範大学といえば、この10年余り、南京大学と共同で学術誌『文化研究(Cultural Studies)』を刊行し、UTCPとも繋がりの深い張旭東ニューヨーク大学教授ほか、多数の国外の研究者を巻き込んで、毎年興味深い特集を組んできた。今回の会議は、中国のカルチュラル・スタディ―ズを主導してきた同大学ならではの試みともいえるだろう。発表タイトルも、文革や大躍進だけでなく、ホロコースト、ソ連社会主義、雑誌『新満洲』などが並び、珍しい例としては苦力を描いた清末小説の研究も。予想以上に何でもアリで、名前も初めて聞くような欧米作家の研究もいくつもあった。

ただ、意欲的なテーマ設定が上滑りになってしまった感もないではない。それはやはり、「トラウマ」とは何であり、なぜ「文学」からそれを見るのか、という点が曖昧にされたままだったからだと思う。多くの発表で、「トラウマ」はただ「苦難の経験」といった程度の意味で用いられていたが、文学つまり「言葉」や「文字」による表現との関係を考えるのであれば、例えばトラウマを「言葉にできない経験」と定義したキャシー・カルースにまで立ち返って考えるような作業が必要なのではないか。

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その意味で、近年中国で着目されている「底層(貧困層)」概念や「底層文学」に関する幾つかの発表と討論は、発表内容を超える面白さがあった。というのは、私にはそれが、社会主義時代に盛んに喧伝された、革命の主体である「人民(性)」概念のトラウマ性を示しているように感じられたからである。むろん「人民」概念じたいは、改革開放以後その力を失っており、「底層」という概念はいわばその代替品として流通している面が少なからずある。そして中国の研究者たちはこの「底層」概念を、肯定するにせよ否定するにせよ、どこか感情的に語らずにはいられないようなのだ。その意味で「人民」概念は、中国の知識人、研究者の脳裏に(形を変えつつも)繰り返し回帰する、いわば無意識の「トラウマ」なのではないか。

私の研究している、文革中に農村に送られた「知識青年」たちの文学にも、これと似たような現象がみられる。たとえば今回発表で取り上げた、農村での性愛体験を描いた王小波『黄金時代』のなかには、90年代に北京で再会した下放時代の愛人が、娘の存在を主人公に告げる場面がある。このような出来事は現実にも数多くあったと思われるが(池谷薫監督の映画『延安の娘』参照)、「知識青年」の文学作品にも、農村に残してきた恋人とか娘が、文革後に都市にいる元「知識青年」を訪ねてくる、というパターンが見られる。この農村の少女の「回帰」現象は、「知識青年」たちにとってのある種の「トラウマ」の表現であることは確かだと思われる。

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また、テーマが国際的・学際的だっこともあってか、参加者70人あまりのなかに、日米だけでなく、イタリアやスウェーデン、デンマークなどからの参加者もいた。中国語がこのような場で学術共通語として機能するというのは、日本にいてはなかなか味わうことのできない、刺激的というか不思議な体験であった。

うまくまとまりがつかないが、色々なヒントを貰うことができ、大変有意義な学会であった。資金や事務などで支援していただいたUTCPにお礼申し上げます。有難うございました。


(報告:杉谷幸太)

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