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【報告】2013年度ハワイ大学―東京大学夏季比較哲学セミナー(2)

2013.09.19 梶谷真司, 中島隆博, 川村覚文, 小林康夫, 東西哲学の対話的実践

引き続き、2013年8月に行われたハワイ大学と東京大学の比較哲学セミナーについての報告です。今回は、セミナー2日目(8月6日)の講義と、3日目(8月7日)に行われた小林康夫教授の授業の様子を、それぞれ新居さん、UTCPの川村さんに執筆していただきました。

8月6日、サマーセミナー2日目は前日に続き真夏日となり、ハワイの参加者からは、東京の蒸し暑さは格別だという声が聞かれた。冷房のきいた部屋で講義は行われたが、本日は石田先生と梶谷先生の初回の講義ということもあり、教室は熱気につつまれていた。

午前はハワイ大学の石田正人先生による講義が行われた。我々は3週目に福井の永平寺、鳥取の天徳寺という曹洞宗の寺院に参禅することになっているのだが、石田先生の講義では曹洞宗の開祖である道元の思想が紹介された。禅というと、一般的には神秘的で、非論理的なイメージがある。しかし、石田先生の講義は、道元のテキストに対していかに理性的なアプローチが可能であるかを実践していくものであった。例えば、人が歩くのと同じように、山も歩くのだという道元の言葉の背後には、「もの(substance)」ではなく「はたらき(function)」を基礎として構築された道元の哲学があるというのだ。

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道元の哲学は、人間と人間でないものの区別が消失してしまうような、極端な世界観をもっている。そのような、我々の実感と乖離した哲学を理解することは、非常に難しい。そのような道元の思想に接することで、私は、理解をしようとすればするほど謎が深まり、捉えどころがなくなっていくような感覚を味わったのだが、そのような感覚こそが、他者の哲学と向き合い、自らの哲学を鍛えていく上では大切なのではないかと思った。

午後は東京大学の梶谷真司先生による講義が行われた。「自然とはなにか」と題された梶谷先生の講義は、我々の生活に深く結びついた問題を扱っているという点で、抽象的な道元の思想を扱った石田先生の講義とは対照的なものであった。しかし、それは問題へのアプローチが容易になるということを意味するのではない。

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梶谷先生はまず、様々な例をあげながら、「自然」という言葉がいかに多様な用法で用いられているのかを紹介された。例えば、「自然環境」や「自然災害」という用法では、「自然」は、山や森林、河川などからなる領域を意味する。それに対し、「自然権」という用法では、人に本来的に備わっているような性質を意味し、「自然に振舞う」という用法では、自発的でのびのびとした様態を意味するようになる。このように、「自然」という言葉は様々な意味で使われており、その言葉の核心にあるものは曖昧かつ複雑で、容易には捉えがたい。そして、我々の思考は言葉を使うことで成り立つのだから、「自然」という言葉の曖昧さと複雑さは、「自然」という言葉を用いる我々の思考の曖昧さと複雑さを意味する。「自然」という言葉を仔細に検討していくことで、どうやらそれが「いい・わるい」といった規範性の概念と結びついていることが明らかになってくるのだが、このように、我々の思考が無自覚に依拠しているものを明るみにだし、批判的な検討を行うこともまた哲学の使命の一つだろう。授業が終わる際、次回からは「自然」という問題を、「出産」、「死」というテーマの中で考えていくということが予告されたが、先生の講義が今後どのような展開を見せていくのか、非常に楽しみである。

(文責:新居)

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8月7日、この日はサマー・インスティテュートとして、初めて駒場キャンパスで講義が行われた日であった。本郷キャンパスの近所に宿をとっているハワイ大学の学生たちも、少し遠征してUTCPの本拠地を訪れる格好になった。この時期は、日本および世界の戦後史を規定し続けている、さまざまな歴史的出来事が起こっている。サマー・インスティテュートを通じて学んでいることの一つは、過去の歴史を通して形成されてきた今日の我々を、批判的に問い返すような哲学的視点であるともいえよう。

そしてこの日の講義は、まさに我々を取り巻き構成してきた歴史への問い直しを、求めてくるようなものであった。担当者は小林康夫先生。小林先生はまず、なぜ哲学を学ぶのか、それぞれにとっての哲学的な問いとは何か、を尋ねられた。そして、それに対するいくつかの応答があった後、アルゼンチンはバリローチェで2008年に開催された国際哲学会議で、先生自身がされた発表を紹介された。

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バリローチェでの講演は、東アジアにおける哲学の実践をすることの意味について考察されたものである。近代化という目的のために、100年以上も昔から、日本は西欧から哲学を輸入しそれの移植に努めてきた。それは、多くの場合仏教という歴史的に受容されてきた思惟との比較によって、なされてきたのである。つまり、西欧哲学の抽象的かつ論理的な思考システムに拮抗しうる日本的な文化伝統として、仏教が見いだされてきたのである。

それゆえ、日本というコンテクストの中で哲学を実践するということは、仏教の名のもとに検討されてきた人間や世界に関する理解とそれに基づいた実践を、西欧哲学的な言説と相互干渉させることを避けては通れない。そして、このことによって西欧哲学が普遍的な真理としていたことを、問い直し脱構築することが可能になるのではないのか。仏教は構成された世界やそこに見出されている一切の意味からの離脱=解脱を説くが、そのような離脱を実践すること=行ずることによって、西欧哲学によって意味を付与されてきたこの世界を、引き受けつつも超えでる=無化すること。これこそが東アジアにいる我々が、メタ哲学として仏教に見出すべき希望であるのだという。

以上のような講義を聴きつつ、しかし、このような実践を目指したはずのこれまでの様々な知的運動――たとえば京都学派――などと同じ轍を踏まないようにするために、どうすればよいのか、それを自らの課題として考えて行きたいと思った。

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講義終了後、ハワイ大学からの参加者を迎えてのウェルカム・パーティーが行われた。サマー・インスティテュートおよびUTCPの活動、およびハワイ大学マノア校の道徳哲学研究センターの設置に対して普段からご支援頂いている上廣倫理財団を代表して、丸山登氏が最初に挨拶された。その後、参加者全員で立食形式のランチを囲んだ。去年からの引き続いての参加者は旧交を温め、また私のように今年に入って初めて参加したものは、他の参加者と交流を深める、いい機会だったのではないだろうか。

(文責:川村)

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