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【報告】2013年度ハワイ大学―東京大学夏季比較哲学セミナー(8)

2013.09.29 梶谷真司, 中島隆博, 東西哲学の対話的実践

8月20日、21日は福井・永平寺での参禅体験です。サマーセミナーの後、2013年度冬学期からUTCPのRAに加わることになった佐藤さんに報告をいただきました。

今回のセミナーのハイライトの一つともいうべき「哲学の実践」を体験するために永平寺に入山する。活き活きとした道元の教えの世界が脈々と息づき、雲水が200名修行している(訪問時)曹洞宗の総本山、永平寺には昼前に到着。昼食を門前のレストランでいただいてから、いよいよ一泊二日の参禅体験が始まる。このブログでは、我々が体験させていただいたプチ雲水修行をまとめてみたい。

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永平寺での生活は、時間に忠実に、規則正しく営まれている。一泊二日の短期とはいえ、我々にも時間に沿った行動が望まれた。日々の生活そのものが、全て禅修行に通じるということが自覚されたスケジュールであったため、備忘録として一日目、二日目のスケジュールを記しておく。

8月20日: 
到着後、16:00~ 風呂
17:30~ 薬石(夕食)
18:40~ 坐禅、映画、後道老師による法話
21:00~ 開枕(消灯)

8月21日:
3:10  起床
3:40~ 暁天坐禅
5:00~ 法堂献湯・朝課(焼香)
7:30~ 小食(朝食)
8:30~ 坐禅
9:30~ 法話・議論

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8月20日
どこもかしこもピカピカに磨き上げられた風呂場で汗を流し、雲水の生活からすると贅沢と思われる精進料理の夕食をいただき、坐禅。坐禅は40分間のうち、15分の坐禅、10分の歩く禅、15分の坐禅と、初心者にも取り組みやすいプログラムになっていた。初回ということで、坐禅中に右肩を叩く警策(きょうさく)は説明と実演だけに終わり、実際に受けることはできなかった。坐禅で心を整えてから後道老師の法話を伺う。

老師はまず、道元の教えの特徴として三点:正伝の仏法、只管打坐(徹底して坐禅すること)、修証一等(修行と悟りを区別しないこと)を挙げることから始められた。そこから、無所得・無所悟(収穫も悟りも無い)に触れ、只管打坐しても一切の見返りを求めないこと、何かを求めないことが今をきちんと生きるということに繋がり、一歩一歩、一息一息に意味があり、ゴールに到達しなくても一歩、歩み、一息することに意味があるのだということから、兀兀地座(ゴツゴツジザ)の概念を紹介された。兀兀地座を説明されるにあたり、「思量には不思量、これ非思量という」の一文を示された。これを理解するために、三角錐の面それぞれが思量、不思量、非思量に対応しており、坐禅を通して思量=不思量=非思量=兀兀地座、すなわち無心でも有心でもなく、今、している坐禅に集中することが大切であることを説かれた。最後に仏法僧の三宝に触れられ、坐禅とは大宇宙と一体であることを体感するための行為であると締め括られた。

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老師の法話の後、大変活発な質疑応答が広げられたが、開枕の時間を守ることも修行の一環として、8時45分には解散となり、議論は翌日の法話に持ち越されることになった。正法眼蔵随聞記を開くと「夜話に云く…」から始まる道元の法話が多いことに気付く。道元が弟子たちにした夜話も、議論が佳境に入った途端に就寝の時間になったのかな、などと思いつつ床に就いた。

8月21日
横になり、寝ているのか冷めているのか夢うつつの内に、起床時間となる。身支度を整え、暁天坐禅。ここで希望者に警策が施されるということで、巡回中の和尚に合掌で合図を送り、警策を受ける。右肩へのじんわりとした心地よい痛みが、坐禅への集中を促してくれた。その後、法堂で朝課に参列させていただく。外はまだ薄暗く、雲水達の読経の声だけが法堂に響いて聞こえる朝課は、時間の経過を忘れてしまうほど、実に美しい一時だった。白粥にタクアンとゴマ塩だけと聞いていた雲水達の朝食とは雲泥の差の、立派なおかず付きの朝食をいただいた後は、永平寺では最後となる坐禅。その後、二回目の後道老師による法話が開かれた。

(永平寺の庭)

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老師は、修練の結果として吾我を離れることに触れ、日本の芸事における守破離、型破りになるために型が必要であることを説かれた。一切煩悩が無いので自らが光っている状態を示す、不対縁而照に触れ、希望(将来)や記憶(過去)を作り出しているのは自分でしかなく、何を原因とし何を結果と考えるかで見方は異なるにも関わらず、こうした関係性を作り出して物事を見てしまうのも今の自分でしかないと、諭された。ここで宮川和尚から直下承当(じきげじょうとう)についてお話しをいただく。曰く、我々には感覚の有限性があり、我々の意識が届くところまでしか意識していない。我々には見えないかもしれないが、仏法はどこにでもあり、向こうから世界に落ちてくるのが、直下承当ということであった。その後、質疑応答の時間が設けられ、学生からの活発な質問が成された。特に印象的だったのが、神戸さんの「学生が論文を書く際の心構え」についての質問だった。宮川和尚が「論文は機縁の積算であり、他人の目があることで論文は生きる、他人の目が無ければ死んでしまうのだから、他人の目を大切にすることだ」と応えられたのに続き、中島先生の論文の三分類(useful, interesting, garbage)が紹介された。老師からは、入我我入、物我一体、純一無雑と示され、全てをおろそかにせず、今、していることに迷いきること。心や全神経を集中させることが大切である、との応えを頂戴した。最後に老師から次の句が紹介され、セッションは終了となった。

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「開池月不待 池開いて月待たず
 成池月自来 池成れば自ら月来る」

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日常生活に戻ってから、参加者のそれぞれが、短期の御参籠(ゴサンゴコ、お泊り)とはいえ、濃密な時間を過ごさせていただいたと、改めて永平寺での体験を振り返っているのではないだろうか。曹洞宗信者でもない我々が参禅できる有り難さと、参禅の実現に御尽力くださった中島先生を始め、宮川和尚、黒柳和尚、法話を下さった後道老師、そして雲水の方々との縁を振り返り、貴重な体験をさせていただいた事の重みを深く感じ、またそこから何を自身の人生の中へ取り入れるべきなのか、未だ終わりない課題に取り組んでいるように感じる。

(文責:佐藤)

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